度重なるケガに苦しみながらも不屈の精神で挑み続けた館山昌平氏。
通算9度の手術と191針の傷跡を乗り越えマウンドに立ち続けた。
「松坂世代」の右腕がプロで生き残るために選択した生存戦略とは。

度重なるケガに苦しみながらも、その度に不屈の精神でマウンドへと帰ってきた「不死鳥」のような投手がいました。プロ野球のヤクルトで最多勝のタイトルも獲得した元プロ野球選手の館山昌平(たてやま・しょうへい)氏が現役生活の中で受けた手術の回数は実に9度。右肘内側側副靭帯再建術(通称トミー・ジョン手術)だけでも3度経験しました。

過酷なリハビリに耐え抜き、ファンの声援を背にボールを投げ続けた身体には、191針もの傷跡が刻まれています。絶望的な状況に直面しても決して諦めず、自分を信じて前を向き続けることができたのは、一体なぜだったのでしょうか。

現役引退後は投手コーチや野球解説者として活躍。現在は社会人野球チームマルハン北日本カンパニーの監督として多忙な日々を送っています。これまでの激動の歩みを振り返りながら、ピアノの先生を夢見ていた少年時代、松坂大輔氏との出会い、プレースタイルを変更して挑んだプロでのリアルな葛藤などに迫りました。

「ピアニスト」を夢見た絶対音感の持ち主が野球の道へ

――館山さんは小学2年から野球を始められたそうですが、当時はどのような少年時代を過ごされていたのでしょうか。

館山昌平氏(以下、館山氏):私が小学2年の頃はまだ昭和の時代で、Jリーグが発足する前ということもあり、地域全体で野球がものすごく盛んでした。放課後にグラブとボールを持って遊ぶのが当たり前の環境でしたので、ごく自然な流れで地元の野球チームに入団しました。小学校のチームでは市の大会や県の大会で優勝するなど、素晴らしい仲間に恵まれて素晴らしい経験をさせていただきました。

 ただ、実は小学時代の夢は「ピアノの先生」や「ピアニスト」になることだったんです。小学校の先生だった母は合唱コンクールなどで伴奏者を務めるような家庭環境でしたので、私は3歳の頃からピアノを習っていました。小学校では日直が終わるとクラスメートから演奏をリクエストされるほど、ピアノが得意な少年でした。

――現在の館山さんのイメージからは少し意外なエピソードですね。音楽の経験が野球に生きた部分はありますか?

館山氏:当時は絶対音感がありましたので、実は今でもカラオケに行くことが苦手なんです。原曲のキーから少しでも音程が外れたり、自分の声がずれたりするだけで強い違和感とストレスを覚えてしまいます。ただ、この繊細な感覚はピッチャーとして求められる細かな指先の動きに間違いなく生きていたと思います。

 後にプロに入ってから血管や神経が圧迫される「血行障害」の手術を受けることになるのですが、それも指先の筋肉が発達しすぎて器用すぎたことが一因だと医師から言われました。結果的に、ボールを細かく操る感覚という部分においては、ピアノで培った繊細さが大きなプラスの影響をもたらしてくれたと考えています。中学に入学するタイミングで一度は吹奏楽部への入部を迷いましたが、最終的には野球一本に絞る決断を下しました。

高校から本格的に投手専念…松坂大輔さんとの衝撃的な出会い

――中学時代までは本格的なピッチャー経験はなかったとお聞きしました。日大藤沢高への進学が大きな転機になったのでしょうか?

館山氏:中学時代は軟式野球部でプレーしていました。硬式のクラブチームから声がかかるような目立った選手ではなく、将来的には地元の厚木高へ進学して勉強と両立しながら、国立大学や防衛大学で野球が続けられればいいなと漠然と考えていました。

 そんな私に声をかけてくださったのが、当時、日大藤沢高の監督だった鈴木博識さんです(現在は鹿島学園監督)でした。私の肩の柔らかさや関節の使い方を見て、「ピッチャーとして来ないか」と誘っていただいたんです。中学ではキャッチャーやライトを守ることが多く、本格的なマウンド経験がない自分に対するまさかの提案に驚きましたが、自分を見いだしてくれた指導者のもとで挑戦したいと考え、入学を決意しました。

 高校に入学すると、同学年にはピッチャーが17人も在籍していました。私は足が速いわけでも打撃が飛び抜けているわけでもありませんでしたので、生き残るためにはピッチャーとして勝負するしかありませんでした。周囲のケガや様々な運も重なり、1年生の秋にはベンチ入りを果たし、2年生の秋からは背番号1を背負うようになりました。

――神奈川県のライバルにはのちに「平成の怪物」と呼ばれる横浜高の松坂大輔さん(元西武など)がいました。当時の印象はいかがでしたか?

館山氏:初めて大輔の噂を聞いたのは高校1年の時でした。「とんでもない1年生が横浜高にいる」と耳にし、2年生の秋の神奈川県大会決勝で初めて対戦しました。開会式などで話しにいくと、物腰が柔らかくて何でも教えてくれ、友達のような感覚で受け入れてくれるんです。ただ、ひとたびマウンドに上がると、驚くほどボールが速く、変化球のキレも凄まじい本物の「怪物」でした。

 日本を代表する最高のお手本が同じ神奈川県にいて、彼から直接スライダーの投げ方を聞いたり、右足でプレートの土を払う仕草、グラブの扱い方を真似したりできたことは、投手としての基礎を作る上でこれ以上ない財産となりました。私も3年春のセンバツでベスト4に入ったことで注目され、高校卒業時にプロへ進む選択肢もありましたが、松坂大輔という怪物を間近で見ていたからこそ、「今の実力ではプロの厳しい世界では到底戦えない」と冷静に判断し、日本大学への進学を選択しました。

――日本大学へと進学された後、プロへの意識が明確に変わった瞬間があったそうですね。

館山氏:大学へ進学しても、周囲は体の厚みもボールの速さも次元が違う選手ばかりで、生存競争の厳しさを痛感しました。私は将来を見据えて、地歴・公民の教員免許を取得するための授業を2年春から受け始めていました。

 そんなある日、新聞の一面で2学年先輩の加藤康介さん(元ロッテなど)がドラフト上位候補として大きく取り上げられているのを目にしました。身近に感じていた先輩の快挙に大きな衝撃を受けると同時に、「もしかしたら自分もプロに行けるかもしれない」という気持ちが湧き上がってきたんです。その瞬間に、私は大学の事務局で教職課程のキャンセル手続きを行いました。退路を断ち、野球一本の人生にシフトすることを決意した、私の野球人生における大きなターニングポイントでした。

大学4年時に右肩手術…ヤクルト入団後に下したフォーム変更

――大学3年時には日本代表の一員としてワールドカップに出場。上位でプロから指名される手応えはありましたか?

館山氏:大学の野球生活の中でおそらく3年時がピークでした。4年になる直前、立教大とのオープン戦で右肩に激しい痛みが走り、2回途中での降板を余儀なくされました。検査の結果は腱板損傷で、すぐに手術を決断しました。それまで視察に訪れていたプロ11球団のスカウトが一気に去っていき、「館山は終わった」という空気が流れる中で、ヤクルトだけが追いかけ続けてくれました。

 4年春はプレーヤーではなく、一塁コーチや投手コーチとしての登録でチームを支えました。このリハビリ期間中に、客観的な視点からチームを見る責任感が生まれ、後輩や同級生とともに倍以上の練習量をこなしたことが、私の肉体と精神の基盤をより強固にしてくれました。4年秋のシーズン途中からマウンドに復帰し、球速こそ140キロに届かない状態でしたが、巧みなモデルチェンジをアピールできたことで、ドラフト3巡目でヤクルトへの入団を果たすことができました。

――ヤクルトに入団後、オーバースローからサイドスローに近いスリークオーターへと投球フォームを大きく変更されています。この決断の背景には何があったのでしょうか?

館山氏:プロの世界に入ったものの、大学時代の肩の手術の影響で、どうしても万全の状態で上から投げることができなくなっていました。最高のステージに上がった以上、結果を残せなければすぐに去らなければならない厳しい世界です。私は肩への負担を減らし、打者を抑えるために、自分の意思で腕の角度を下げるという大きな決断を下しました。

 球団が思い描いていた私の理想のフォームとは異なる選択でしたが、当時の担当スカウトであった宮本賢治さんが強く後押しをしてくださいました。宮本さんご自身もヤクルトでサイド右腕として活躍された先輩であり、「高校や大学での取り組みを見ているから必ずできる。思い切ってやってみろ」と、周囲への根回しを含めて動いてくださったんです。

 幼少期から続けてきた形を捨てる恐怖はありましたが、プロで生き残るための生存戦略としてこのフォーム変更を完遂できたからこそ、結果として17年という長い現役生活を全うすることができました。

通算9度の手術と191針の傷跡「ケガを言い訳にしない」

――現役生活では右肘のトミー・ジョン手術3回を含む9回もの手術を受けました。その体には191針もの傷跡があるなど、ケガとの戦いだったと推察します。

館山氏:プロ2年目の2004年に1回目のトミー・ジョン手術を受けました。そして2013年、初めて開幕投手を任されて、さらなる高みを目指そうとしていた4月に右肘靭帯を再断裂して2回目のトミー・ジョン手術を受けました。1年以上の過酷なリハビリを乗り越え、いよいよ2014年の復帰登板を迎えるという2軍戦のマウンドでの投球練習の4球目にまた靭帯が切れてしまったんです。ルール上、先発投手は打者1人に対して必ず投げなければなりません。腕に全く力が入らない状態で1球だけ投げましたが、もうそこから右腕に力が入らず、降板しました。

 それまでの1年間の努力がすべて一瞬で白紙になり、その時は本当に「もう野球を辞めよう」と心が折れかけました。しかし、私のこれまでの人生を振り返った時、ケガを理由にマウンドを去っていった多くのライバルや仲間の姿が頭をよぎったんです。「ここで諦めたら、ケガを言い訳にして逃げるのと同じになってしまう。それだけは絶対に嫌だ」という強い負けず嫌いの精神と諦めの悪さが、私をもう一度奮い立たせ、3度目のトミー・ジョン手術を決断しました。

 家族には多大な苦労をかけましたが、妻も「あなたは野球のことだけに集中して」と後押ししてくれました。時にはホテルに2カ月間泊まり込んでリハビリを進めたりもしました。2015年に再びマウンドへ帰ってきてチームのリーグ優勝に貢献できた瞬間は、言葉にできないほどの感動がありました。

――2019年に惜しまれつつも現役引退を発表されましたが、その決断に至った理由を教えてください。

館山氏:2015年の復帰以降も全力で戦い続けました。ただ、2軍生活が長くなっても毎年100イニング近くを投げ、いつでも1軍に呼ばれていいように準備はしていましたが、ふと考えたんです。「ここで1つのアウトを取ることが、チームの未来、3年後、5年後に繋がるのだろうか。これからのヤクルトを背負う若い後輩たちに譲るべきではないか」と。

 球団からは「現役を続けてもいい」という本当にありがたい選択肢をいただいていましたが、チームの未来を最優先に考えた時、すっきりとユニフォームを脱ぐ決断ができました。突然のクビ宣告ではなく、自分の意思を球団に吐き出した上での結論でしたので、全く悔いはありませんでした。成績が落ちても17年間、背番号「25」を変えずに守り続けてくれたヤクルトには、今でも感謝しかありません。

社会人野球チームマルハン北日本カンパニーの初代監督就任…「形を押し付けない」指導論

――現在はアマチュア野球の指導者として、立ち上がったばかりの社会人野球チームマルハン北日本カンパニーで監督を任されています。どのような信念を持って選手たちと向き合っていますか?

館山氏:2024年にチーム構想が立ち上がり、現在は2期生を迎えて実質2年目のシーズンを戦っています。私たちのチームは、社業と野球の両方でトップを目指す「二刀流」をテーマに掲げています。限られた時間の中で、仕事でも人間としてもしっかりと成長し、野球を卒業するタイミングで「やり切った」と思える人材を育成することが私の最大の使命です。

 指導者としての私のスタイルは、選手に対して「この形をやりなさい」と特定のフォームや考え方を押し付けることは一切ありません。選手たちが生まれ育った環境や骨格、野球文化を徹底的に聞き出し、そこに新しいデータを融合させる「発見の手助け」を大切にしています。これは現役時代に私の意見を尊重し、様々な個性を許容してくださった古田敦也さんや高津臣吾さんの指導方法を強く参考にさせていただいています。

――最後に、人生の大きな転機において、新しい一歩を踏み出す決断に迷っている人々へ向けてエールをお願いします。

館山氏:私は指導する選手たちに対して、常に問いかけている言葉があります。それは、結果を残すことができなかった時に、「今日は俺の日じゃなかった」と割り切って言えるかどうか、ということです。スポーツもビジネスも同じですが、自分がどんなにベストを尽くしても、相手がそれを上回れば勝てない時は必ずあります。大切なのは、結果ではなく「そこに至るまでにやり残したことが本当になかったか」を極限まで自問自答し、日々を大切に積み重ねることです。私自身、現役時代にそう思える試合が2試合ありました。

 人生には、周囲の意見に流されるのではなく、自分の生存競争のために「自分で決断して選択しなければならない瞬間」が必ず訪れます。その選択の先には、私のように何度もケガをするような過酷な試練が待っているかもしれません。しかし、そこまで徹底的に突き詰めて自分で下した決断であれば、どんな困難に直面しても他人のせいにすることなく、誇りを持って最後まで歩みを進めることができます。自分の可能性を信じ、恐れずに自分で人生の選択を勝ち取ってほしいと思います。

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