1998年夏。PL学園(大阪)のエースとして、甲子園で横浜高(神奈川)の松坂大輔氏(西武ほか)と延長17回の死闘を演じた上重聡氏。その名勝負は、今も色あせることなく、高校野球ファンの記憶に深く刻まれています。立教大学では東京六大学リーグ史上2人目(当時)となる完全試合を達成するなど、華々しい球歴を経て、2003年に日本テレビに入社。以来21年間にわたり、スポーツ実況はもちろん、『ズームイン!!サタデー』のメイン司会を務めるなど、スポーツと情報番組の「二刀流」でその地位を確立しました。しかし2024年3月末に日本テレビを退社。フリーアナウンサーという新たな道を選んだことは、多くの方に驚きをもって受け止められました。
野球のエリート街道を歩みながら、常に挫折と試練に直面してきた上重氏。波乱万丈な人生の根底には、「最高のパフォーマンスを発揮するための準備力」と「一歩踏み出す勇気」という、アスリートとアナウンサー双方で磨き上げた共通の哲学があります。上重氏のキャリアを振り返りながら、ビジネスの世界にも通じる「勝利への哲学」と、セカンドキャリアに悩む「後輩たちへのメッセージ」に迫ります。(内田 勝治=ライター)
「エースを目指す」負けず嫌いの原点
――現在の活動内容について教えてください。
上重聡氏(以下、上重氏): 主な活動はテレビ、YouTube、講演会ですね。変わったところでは、企業の新人や管理職向け研修もしています。そのほかでは、イベントの司会やトークショーなどが多いですね。
――ご自身で会社を設立してマネジメントしていると伺いました。何か理由があったのですか?
上重氏: 実は、日本テレビを辞める時に、どこかから誘われるのかなと思っていたら一つもなかったんですよね。結果的に自分でやるしかなかったというのが正直なところです。ただ、もう一度、PL学園の1年生の時のように、一度リセットしてゼロからやってみようかなという思いもありました。自分でやることで、またいろいろな勉強もできるのかなと思ったので、あえて事務所には入らず、自分でやっています。
――企業研修では、どういう内容を教えられているのですか?
上重氏: 私は野球とアナウンサーの両方の経験がありますので、それを生かしています。例えば、銀行向けの研修では窓口業務や営業に携わる人向けに、相手とのコミュニケーションや話し方など、アナウンサー時代に培ったスキルや、プレゼン能力などを教えています。加えて、野球時代に培った、先輩後輩の関係性や、気遣い、思いやりといった精神論の部分を混ぜながらお話しすることが多いですね。
――ご両親は野球に詳しかったのでしょうか?
上重氏: いえ、父も野球をやったことはないですし、母も野球にはあまり興味がありませんでした。私は大阪の八尾市出身なのですが、名門少年野球チームの「八尾フレンド」がたまたまありました。野球をしたいというよりは、そのチームに入りたい、という感じで野球を始めたんです。
私はとにかく負けず嫌いな子どもで、他の子に負けたくないという気持ちが常にありました。自分よりうまい子がいたり、すごい子がいたりする環境に身を置けたというのは、自分としてはすごく良かったと思っています。
――自分よりうまい子がいた時はどういう行動を取られたのですか?
上重氏: 全体練習以外で努力をするというのが当たり前になりました。負けたくないから家で素振りをする、ランニングをするといったことを普通に行動に移せるようになりました。負けを認めているからこそ、相手よりも練習しなければいけないという気持ちは小学校の時からありました。社会に出ればいくらでも差がつくし、比べられるし、順位をつけられます。私は、子どもの頃から悔しさとか、相手を認めるとか、負けを知る力は必要だと思っています。レベルの高いチームで揉まれた経験は、自分にとって本当に良かったですね。
「次元が違う」怪物・松坂大輔との出会い
――PL学園に進まれたのもその負けず嫌い精神からだったのでしょうか?
上重氏: そうですね。私は実は小学時代も中学時代も2番手ピッチャーで、エース背番号の「1」を一度もつけたことがありませんでした。その上にエースが一人いるということが常にコンプレックスでした。高校進学の時も、周りからは文武両道の学校で野球のレベルを落としてエースになれるところを選んだ方がいいと言われたのですが、そこでまた負けず嫌い魂に火がつきました(笑)。逆に、名門のPL学園で、人生で初めて背番号1をつけたらカッコいいんじゃないかと思ってしまったんです。
PLの関係者からは「ピッチャーは7人獲るけど、お前は6番目の評価だ」と言われました。「もしかしたら3年間で一度もユニフォームを着られないかもしれないけど、それでもいいか」とも言われました。それもまた悔しくて、「だったら勝負してやる!」という気持ちでPLに行きました。
私には作戦がありました。中学の野球引退から高校入学までの半年間、練習をせずに高校で伸び悩む先輩を見てきました。そこで、自分はこの半年間で誰よりも練習をしたら、自分より評価の高い人間と差が縮まるのではないかと考えました。当時は珍しかったと思いますが、筋力トレーニングをしたり、徹底的に長距離を走り込んだりしました。
準備をして高校に入学したとたん、自分より評価の高い選手がケガをしたり、練習についていけなかったりするケースが続出したんです。1年生の投手のほとんどが投げられない中で、ある日、元気だった私が打撃投手を務めることになり、そこからトントン拍子で1年生の夏から甲子園のメンバーに入ることができました。PLのピッチャーで1年夏に甲子園入りしたのは、桑田真澄さん(元巨人)と私、そして前田健太くん(楽天)の3人しかいません。6番目の評価だった私が、大逆転ストーリーを演じることができました。
もともと飛び抜けた実力がないので、カバーするためには、自分で考え、それを行動に移すしかありません。2番手ピッチャーというコンプレックスがあったからこそ、エースだったらやらなかったかもしれない努力ができた。今振り返ると、常に悔しさを持っていて良かったのかなと思います。
――そして、3年春夏の甲子園で松坂大輔氏と対戦されました。その時の衝撃はどのようなものでしたか。
上重氏: 春も夏も、松坂の率いる横浜高に負けたのですが、春に松坂を初めて見た時のインパクトは今でも忘れることはありません。「次元が違う。こんなすごいボールを投げるやつがいるのか」と思いましたし、しかもそれが同級生だということに衝撃を受けました。世の中には、いくら努力してもかなわない人間がいるということを見せつけられました。
――「松坂世代」はプロ野球選手を多数輩出した黄金世代だと言われています。
上重氏: よくマラソンに例えるのですが、我々「松坂世代」は、松坂が世界新記録ペースでどんどん前に行くんです。それにつられて皆が実力以上に松坂についていこうと走ることで、ゴールしたら自己新記録が出ていた、という感じだったんじゃないかなと思います。
野球人生最大の試練「イップス」からの脱却
――立教大学に進まれた後、野球人生最大の試練があったそうですね。
上重氏: 期待されて入学したものの、2年春のオープン戦で大炎上してしまい、最後はバッターの頭にデッドボールを当ててしまったんです。それを機に、突然思い通りにボールが投げられなくなる「イップス」になりました。ピッチャーはボールが投げられないと、やることがないんです。ティッシュを丸めてゴミ箱に投げようとしても、指から離れなくなるほどひどい状態でした。
――当時の齋藤章児監督からはどのような言葉をかけられたのですか。
上重氏: 外野へのコンバートを宣告されました。本当に屈辱的でしたが、「一度プライドを捨てて惨めな姿を見せてみろ」とも声をかけられました。「甲子園で活躍したピッチャーが外野を守っていたら、いろいろ言われることは分かっている。でも、それを全部受け入れろ。そこからがスタートだ」と。
もう耐えられないと思い、親に初めて泣きながら「もう野球は辞めます」と言ったんです。でも、その時に親はこう言ってくれました。「親は一番の応援団なんだから。お前が納得するまで、どんな惨めな姿でもいいからやってみろ」。そこで再び奮い立つ気持ちになり、半年間、外野手として試合に出場しました。
――外野手の経験がピッチャーとして復帰する上で大きな転機になったのですね。
上重氏: 外野を守っていると、スタンドの観客から「おい上重、何をやっているんだ。お前の居場所はそこじゃないだろ」と言われるんです。これが、齋藤監督の言っていた「受け入れろ」ということなんだなと実感しました。でも、野手として試合に出場すると、新たな世界が開けました。打席に立つと、松坂みたいに150キロを投げなくても、抑えるピッチャーがたくさんいるんです。「球はそんなに速くないけど打ちづらいな」「こんな方法で抑えているんだな」。今まで見えなかったものがどんどん見えてくるようになりました。
自分は松坂みたいにならなきゃいけないとずっと思っていました。でも、そもそも「俺は松坂じゃない」。ピッチャーで一番大事なのは0点に抑えること。それならば、いろんな引き出しを自分で作ろうと思って努力を続けていたら、2年秋の東大戦で完全試合を達成することができました。あの時、野球を辞めていたら、その記録もありませんでした。「プライドを捨てろ」と言ってくれた齋藤監督は、私にとっての恩師です。
「二刀流」が切り開いたアナウンサーとしてのキャリア
――プロ野球選手を目指していたにも関わらず、アナウンサーに方向転換されたのはなぜですか?
上重氏: もちろんプロを目指していましたが、大学3年夏から秋にかけて肘を怪我してしまいました。大学でプロに行けなかったら、もう野球は辞めようと決めていました。ちょうど就職活動が始まる時期でもあったので、思い切って方向転換しました。テレビがすごく好きで興味があったので、アナウンサー試験を受けたんです。
PLでエースになって甲子園に出るようになると、取材を受ける機会が一気に増えました。受け答えをする中で、自分の気持ちを相手に伝える難しさを感じていたんです。その一方で、3年夏のPL対横浜を実況したアナウンサーのフレーズが、好ゲームを演出してくれたという思いから、アナウンサーの仕事にもともと興味を持っていました。
――野球とアナウンサーを比較して違いや共通点はありましたか?
上重氏: ピッチャーとアナウンサーは非常に似ているんです。例えば、1週間後に登板や実況の機会があると決まると、そのために最高のパフォーマンスができるような準備をしていきます。ピッチャーなら走る距離を調整したり、アナウンサーなら取材をして資料を作ったりして、自信を持って本番に臨むという共通点があります。
それでも、いざマウンドに上がり、放送席に座れば、何が起こるか分からない。準備はしますが、あとは「なるようになれ」と。両者はこのマインドの持っていき方も共通しています。野球との距離が離れなかったという意味でも、アナウンサーという仕事を選んで良かったなと思っています。
「やらない後悔よりやって後悔」フリー転身の決断
――日本テレビという安定した会社を辞める決断をされたきっかけは何でしょうか?
上重氏: 仕事が一通り一巡して、年齢的にもマウンドを降りて、ピッチングコーチのような管理職の仕事が増えてきた時でした。まだまだ投げていたいな、という思いがあったんです。ちょうどその頃、山本由伸投手(ドジャース)と今永昇太投手(カブス)がメジャーに行くニュースを読んでいて、その時に彼らが発した「一度きりの人生、やらないで後悔するんだったら、やって後悔したいです」という言葉が、自分に問いかけられているような感じがしたんです。「おい上重、今のままでいいのか」と。
43歳の時でした。もうこれで決断できなかったらもう一生会社にいようと思っていました。でも、まだ挑戦したい気持ちが湧いてくるのであれば、思い切ってやってみようということで退社後にフリーとなりました。
――退職してから苦労はありましたか?
上重氏: 現実は甘くはありませんでした。2024年3月末に退社してフリーになったのですが、4月、5月はそこまで仕事がなく、ストレスで帯状疱疹に2回もなりました。夢に真っ白なスケジュール帳が出てくるんです。会社員は休んでも給料がもらえますが、フリーは仕事をしないと報酬が入ってきません。「これはまずいぞ」と不安になりました。
その年の6月、「ダウンタウンDX」(日本テレビ系列)に出演する機会がありました。フリーアナウンサー特集だったのですが、浜田雅功さんの横だったので、笑いが起きればいいなという思いで「浜田さん、僕仕事ないんですよ。助けてください」って懇願したら、「お前、おもろいやないか!誰かこいつに仕事やってくれ」と言ってくれたシーンが放送されました。
放送後には1日で30件も仕事の依頼が来たんです。野球で得た人脈の方からも、「こんな仕事どう?」と紹介していただくなど、そこから一気に好転しました。改めて、野球への感謝と、自分の人生の軸は野球だということに気づかされました。
今でも自分の強みはアスリート経験者であり、司会もできる「二刀流」が武器だと感じています。スポーツ選手との対談では、私の経験談で話が弾んだり、より深い話になることが多いです。企業研修でも、アナウンサーと野球の話をミックスできるのは、なかなか他にはない価値だと思っています。
――これまでご自身の人生の転機をもたらしてくれた人を一人挙げるとしたら、どなたになりますか。
上重氏: 立教大学時代の齋藤章児監督です。私がイップスで苦しんでいる時に、外野へとコンバートした決断と、「プライドを捨てろ」という言葉がなければ、完全試合の記録もなかったと思います。また、アナウンサーを目指したいと伝えた時も、「お前は人がやっていないようなことをやる人間だ。お前がその道を切り開いてみろ」と背中を押してくれました。齋藤監督との出会いがなければ、その後のアナウンサーという道も含めてありませんでした。
――セカンドキャリアに悩む方へメッセージをお願いします。
上重氏: まず思い切って一歩踏み出してみましょう、と伝えたいですね。私も大学時代、アナウンサーは無理だと周囲に言われてきました。悩んでいた時期、たまたまお会いする機会があった明石家さんまさんにそのことを相談したところ、「誰もやってないことをやるから人生面白いんや!」と言ってくださったことで、アナウンサーの受験を決めました。人との出会いや、その時の言葉をキャッチできる「アンテナ」を張っていることも、人生を好転させる上で非常に大切だと感じています。