世界で戦うクリエイティブディレクター、レイ・イナモト氏。
飛騨高山の自然で育まれた原点とNYでの試練を経て見据える、
「日本を世界で不可欠な存在にする」ための本質的ブランド思考とは。

世界のクリエイティブシーンの最前線で異彩を放ち続けるクリエイティブ・ディレクター、レイ・イナモト氏。世界的なトップ企業の成長戦略やブランドビルディングを伴走者として手掛けてきた同氏の原点は、飛騨高山の深い山奥で過ごした幼少期にありました。

テレビもない大自然の中で培われた原体験、ミシガン大学での美術とコンピューターサイエンスの融合、そしてニューヨークでの過酷な修行時代――。過酷な試練や業界の圧力に晒されながらも、自らの軸を貫き通して独立を果たした同氏が今、見据えているのは「Make Japan Matter(日本を世界で不可欠な存在にする)」という確固たるミッションです。

「ブランドとは、イメージや話題性のことではない。信頼による差別化だ」と語るイナモト氏。単なる一過性のキャンペーンに留まらず、企業の仕組みや組織カルチャーそのものを変革してきた同氏の歩みと、グローバル市場における日本企業の課題、そしてこれからの時代を生き抜くための本質的な思考法について、その素顔と軌跡に迫りました。(内田勝治=ライター)

手掛けているのは企業の「次の仕組み」を作っていくこと

――まずは現在、どのような事業活動を展開されているのか、自己紹介からお聞かせください。

レイ・イナモト氏(以下、イナモト氏):端的に言うと「ブランド戦略によって企業の成長戦略をお手伝いする」のが我々の仕事です。

 もともと私はデザイナーという立場からスタートし、最初の10年ほどは現場で様々な制作物を創る立場でした。そこからより戦略的な領域や文章執筆へと幅を広げ、幸運なことに世界的なトップ企業とお仕事をさせていただく機会に恵まれました。業界に入ってほぼ30年近くになりますが、現在は経営者の方々のパートナー、伴走者として企業の成長戦略を手掛けています。

 例えば、日本ではユニクロ、アシックス、トヨタ、パナソニック コネクトなどの会社を手掛けています。アメリカでは過去にナイキ、アマゾンなどのブランディングを担当してきました。

 独立当初から日本企業を意識していたわけではありませんでしたが、一番最初にお声がけいただいたのがユニクロでした。柳井(正)さんとは会社を登記してまだ公表していない段階でお会いする機会があり、以来10年以上のお付き合いが続いています。

――単発の広告制作ではなく、そうしたトップ企業から長く信頼され続ける理由はどこにあるのでしょうか?

イナモト氏:共通しているのは、企業の「次の仕組み」を作っていくというアプローチです。ここで言う「仕組み」とは、単なるシステム開発やSI(システムインテグレーション)のような話ではありません。「社員はどうあるべきか」「組織はどうあるべきか」、そして「ブランドが持続的に成長するためにはどうあるべきか」という根本的な問いに向き合うことです。

 単発のキャンペーンで話題を作って売り上げを一時的に伸ばすのではなく、長期的に成長していく構造そのものを提案します。たとえば「採用広報に課題を抱えている」という相談であっても、蓋を開けて社内の声を聞くと、共通言語や企業の目的が存在していないことが大きな課題として横たわっていたりします。そこを固めることで、結果として採用もうまくいく。絆創膏(ばんそうこう)を貼るような応急処置ではなく、正しい診断を行い、優先順位をつけて企業の本質的な課題を診断し、解決の仕組みを伴走しながら作っていく姿勢を評価いただいているのかなと思っています。

――レイさんは幼少期、どのような環境で育ったのでしょうか。

イナモト氏:生まれは東京なのですが、2歳の時に岐阜県の飛騨高山、さらに山奥の清見村(現高山市清見町)という集落に引っ越しました。

 父親がかなり変わった人でして(笑)。もともと立教大学で原子物理学を研究していたのですが、「アインシュタインに憧れて最先端の科学を追うのもいいが、一歩間違えれば人類にとって非常に危険だ」と気づいたそうです。そんな時、オーストリア出身の理論物理学者であるシュレーディンガーの哲学書を読み、「1枚の木の葉が光合成で二酸化炭素を酸素に変える技術は、21世紀の科学でも人間には作れないだろう。最先端の原子力よりも、持続可能なサステイナブルな環境を作ることが大切だ」と奮起し、起業したんです。

 そうして立ち上げたのが、持続可能な木工や建築を手掛ける「オークヴィレッジ」という会社でした。「お椀から建物まで」「100年かかって育った木は100年使えるものに」「子ども一人、どんぐり一粒」といった理念を掲げ、清見村の土地を買って集落を作りました。私はそこで育ちました。本当に山奥で、一番近い小学校まで4キロ離れていて、毎朝バスで通っていました。一学年35~40人程度で、小学校から中学校まで全員ずっと同じメンバーです。

 家にはテレビもありませんでした。親の教育方針で「テレビは置かない」と決められていたので、学校でクラスメイトがテレビ番組の話をしていても全くついていけない。その代わり、山を走り回って木登りをしたり、小屋を作ったり、川で釣りをしたり、本や漫画を読み耽ったりしていました。

祖母の助言で山奥の村からスイスへ

――山奥の村から、どのようにして外の世界へ出ることになったのですか?

イナモト氏:母方の祖母の存在が大きかったですね。祖母は大正生まれでイギリスと日本にルーツをもち、戦前の厳しい時代を一人で生き抜いてきた強い女性でした。1970年代の時点で、自分の娘、つまり私の母を10代でフランスに留学させるような、非常に先進的で型破りな考え方の持ち主だったんです。

 その祖母から「そんな狭い村に閉じこもっていては駄目だ。早く外に出なさい、海外に行きなさい」とずっと言われ続けていました。その影響もあり、中学卒業後は地元の高校には行かず、東京にある留学支援を手掛ける語学学校へ進みました。そこで校長先生から「飛騨高山の方から来ているのだから、ヨーロッパの飛騨高山みたいな環境はどうだ」とスイスの高校(インターナショナルスクール)を紹介され、奨学金を工面して、16歳でスイスへ渡りました。

 その学校は全校生徒が250人、70カ国以上から生徒が集まっていました。一番最初のルームメイトがドイツ人とアメリカ人。アメリカ以上に多様性に満ちた環境に突如投げ込まれたわけです。これが私の人生における最初の大きなターニングポイントになりました。

――その後、アメリカのミシガン大学に進学されますが、専攻に美術とコンピューターサイエンスを選ばれた理由は?

イナモト氏:幼い頃から絵を描くことや、ゼロから新しいものを生み出して人の心を動かす表現が好きでした。ただ、単に絵を描く・彫刻を作るだけではない、もっと幅広い領域を手掛けたいと考え、美術学部が充実している総合大学としてミシガン大学を選びました。

 大学に入学した1990年代半ば、ちょうどインターネット(Web)や電子メールが登場し始めた時期でした。初めて黒い画面上で遠く離れた海外の友人とリアルタイムでテキストチャットをした時、「これはすごい、新しい世界が来る」と強烈な衝撃を受けました。

 さらに当時、デザイナー兼プログラマーとして異彩を放っていたジョン・マエダさんの存在を知りました。プログラミングとデザインを融合させた彼の作品に魅了され、「自分がやりたいのはこれだ」と直感しました。

 MIT(マサチューセッツ工科大学)のサイトから彼のメールアドレスを探して「会いたい」とメールを送ったら、なんと20分後に「いつでもおいで」と返信が来ました。グレイハウンドバス(アメリカ全土を網羅している長距離バス)に何時間も揺られてMITまで作品集を持って会いに行きましたね。彼からは「君はもっとデザインとプログラミングの双方を深めなさい」とアドバイスを受け、大きな刺激となりました。

 自作の表現の幅を広げるためには構造(コード)を理解する必要がある。美術と並行してコンピューターサイエンスを猛勉強し始めました。

また、大学4年の時、一時帰国してアーティスト兼デザイナーであるタナカノリユキさんの小さなスタジオで数カ月間インターンを経験しました。朝一番に出社してトイレ掃除やお茶汲み、電話番といった雑務をこなしつつ、クリエイティブの現場の凄まじい熱量に触れました。彼の多岐にわたる活動からも大きな影響を受けました。

レイ・イナモトの著書『ブランド・シフト ―「信頼」で選ばれる時代の成長戦略』

猛烈なストレスに晒されたゼロからのスタート

――大学卒業後、すぐに順風満帆なキャリアが始まったのでしょうか?

イナモト氏:まったくそんなことはありません。卒業後、ニューヨークへ渡って職を探したのですが、最初10カ月間は一向に採用が決まりませんでした。親から借りた僅かな資金を取り崩しながらバイトで食いつなぎつつ、毎週100通以上のポートフォリオを企業に送り続けるのですが返事すら来ない。真っ暗なトンネルの中を歩いているような暗澹(あんたん)たる日々でした。

 転機となったのは、あるヘッドハンターからのアドバイスでした。「アートデザインとコンピューターサイエンスの両方を高度に修めている人間は市場にいない。そこを強みとして明確に打ち出せ」と言われたのです。己の差別化ポイントを明確に再構築した結果、3カ月ほどで道が開けました。

 その後、伝説的なクリエイティブエージェンシーである「R/GA」に入社し、続いてR/GA と競合している「AKQA」へと移籍。在籍した約11年の期間で、ナイキのカスタマイズサービスやソフトウェアサービスなど、当時の世界基準を変えるようなデジタル戦略とクリエイティブを最高責任者として指揮していきました。

――2015年に独立を決意された背景には何があったのでしょうか?

イナモト氏:ビジネス的な理由と、個人的な理由の両方があります。ビジネス面で言えば、2010年代前半から「従来の広告やマーケティングの仕組みは限界を迎えている」と感じていました。企業が迷った時に大手コンサルに巨額の費用を払って分厚い資料をもらっても実行できない。あるいはデザインファームに頼んでかっこいい未来予測の映像を作ってもらっても、結局現場には落ちてこない。経営の最上流から現場の実行まで、一貫して手触り感を持って伴走する存在が必要だと強く感じたのです。

 個人としては、「死ぬ前にゼロから自分の会社を立ち上げ、失敗してもいいから挑戦したという事実を残したい」という想いがありました。また、優秀なビジネスパートナーであるレム(レム・レイノルズ氏)との出会いも独立を後押ししました。

 とはいえ順風満帆なスタートではありませんでした。言葉を選ばずに言えば、業界の巨大な勢力からの強い圧力と引き止めがありました。「この組織(ファミリー)から出たら終わりだぞ」というような暗黙のプレッシャーです。

 辞意を伝えた瞬間、過去のウェブサイトから自分の名前や実績が消去されました。さらに独立直後には弁護士を通じて圧力をかけられ、夜も眠れないほどの猛烈なストレスに晒される日々が約1年間続きました。過去の実績写真を一切自社サイトに使えず、完全にゼロからの再スタートを余儀なくされましたが、自らの正当性を信じて耐え抜き、現在の「I&CO」を軌道に乗せていきました。

日本の未来を少しでも明るく、温かいものに変えていきたい

――今、次の時代を切り拓こうとしている若い世代やリーダーたちに伝えたいことはなんでしょうか?

イナモト氏:私が30代の時に感銘を受けた、イギリスのアートディレクターであるポール・アーデンの言葉があります。

 「あなたが“どれだけ凄いか”ではなく、あなたが“どれだけ凄くなりたいか”が大事なんだ」

 他人や競合と自分を比較して劣等感を抱く必要はありません。比較すべきは「昨日の自分」です。年齢や立場に関係なく、「自分はどれだけ凄くなりたいか」という情熱を持ち、昨日より一歩前へ進み続けること。それこそが、個人にとっても企業にとっても、独自の価値を創り出す唯一の道だと信じています。

――最近では新著『ブランド・シフト ―「信頼」で選ばれる時代の成長戦略』も出版されました。最後に、現在、レイさんが抱いている最大のミッションを教えてください。

イナモト氏:一言で言えば「Make Japan Matter(日本を世界にとって不可欠な存在にする)」です。

 海外に30年近く身を置き、円安や人口減少、そして世界における日本企業の相対的な存在感の低下を肌で感じてきました。2010年頃を境に、グローバル市場における日本企業と欧米企業のブランド価値には極めて大きな開きが生まれてしまっています。

 日本の企業や経営者は「信頼」を非常に大切にします。しかし、それを「信頼による差別化」にまで昇華しきれていない。ブランドとは、見た目の装飾や一時的な話題作りのことではありません。「なぜ他社ではなく、あなたの企業を選ぶのか」という明確な信頼の理由をつくることなのです。

 我々のような独立系ファームができることは限られているかもしれませんが、志を持つ日本企業のグローバル成長を伴走支援することで、日本の未来を少しでも明るく、温かいものに変えていきたい。それが私とI&COの果たすべき真のミッションだと考えています。

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