2016年リオデジャネイロ五輪で日本バドミントン界初のシングルス銅メダルを獲得し、世界ランキング1位にまで登り詰めた奥原希望氏は、驚異的なフットワークでシャトルを拾い続けるタフネスで、数々の大舞台を経験してきました。
しかし、その輝かしい実績の裏側は、幾度となく襲いかかるケガとの闘いでした。リオデジャネイロ五輪、2021年に1年延期となった東京五輪、そして2024年パリ五輪への選考レースでは、古傷の右膝の痛みで寝返りを打つこともままならず、精神的などん底を経験したといいます。
「特別な才能はなかった」と語る奥原氏がなぜ、前を向き続けられたのか。自らの思考だけで切り開いてきたリアルな「生存戦略」、そしてパリを逃した先にたどり着いた新たな「人生観」の全貌に迫ります。(内田勝治=ライター)
圧倒的「遅咲き」の少女を変えた2人の指導者との出会い
――長野県大町市での幼少期はどのような環境で過ごされたのでしょうか。
奥原希望氏(以下、奥原氏): 幼少期からバドミントン漬けだと思われがちですが、実は違います。母の影響でピアノと水泳を習い、冬は家族で毎週末スキーを滑るのがお決まりでした。
バドミントンに本格的にのめり込んだきっかけは小学校2年生の頃に出た試合でした。公式戦で勝敗がはっきりつく厳しさと喜びを肌で味わった刺激が、何より大きかったです。
とはいえ、当時から何かほかと比べて秀でていた部分があるわけではありませんでした。私は中学2年生の時に初めて全国大会のタイトルを獲得(全日本ジュニア選手権新人の部優勝)したのですが、活躍している先輩や同級生は小学生でタイトルを獲るのが当たり前でした。そうした選手たちと比べると、私は圧倒的に「遅咲き」です。周囲に対する強い劣等感ともがきながら過ごしていました。
――劣等感を抱えていた奥原さんが、才能を開花させた背景には何があったのですか。
奥原氏: 最大の幸運は、要所要所で素晴らしい指導者に巡り合えたことです。まずは小学6年生の終わりに、世界選手権2位の実績を持つ韓国の元トッププレーヤーの方が、たまたま長野県に講習会へいらっしゃったんです。その指導があまりにも衝撃的で、地元のジュニアチームの親御さんたちがその方にアタックして、コーチとして引っ張ってきました。
そのコーチのもとで、グリップの握り方からフットワークといった、競技の基礎的なスキルを積み直すことができました。それが大きなきっかけとなって、中学の時のタイトル獲得に繋がったと思っています。
――その後、埼玉県の大宮東高校への進学を決めた理由は何だったのでしょうか。
奥原氏: 大宮東には世界チャンピオンの経歴を持つ、中国出身の女性コーチがいらっしゃったんです。中学3年生の夏、大宮東の練習に参加した際、そのコーチからショットの技術を教わり、自分なりに何度も反復して身体に染み込ませていきました。
そのショットを携えて臨んだJOCジュニアオリンピックカップでは決勝までいくことができ、さらに女子中学生では2人目となる「全日本総合選手権」への出場権を獲得することができました。この劇的な変化を体験したことで、「外部コーチと恩師による二人三脚の指導の環境が、私には合っているんじゃないか」と確信し、進学を決めました。
全日本総合最年少制覇で生まれた「覚悟」
――そして高校2年生の時、史上最年少となる16歳2カ月で全日本総合を制しました。「これで世界と戦える」という確固たる自信は芽生えたのでしょうか?
奥原氏: 自信なんて全くありませんでした。当時はロンドン五輪に向けた選考レースの真っただ中で、決勝戦の相手だった先輩選手(廣瀬栄理子さん)は、過酷な海外遠征による極限の疲弊により体調を著しく崩されており、結果として「不戦勝」で優勝が決まりました。
優勝できた事実そのものは嬉しかった。しかし、その舞台裏で五輪を目指して戦う先輩たちを目の当たりにした瞬間、「日本一の称号を手にしてしまった以上、これからの私は五輪を目指す戦いに向かわなければならないんだ」という覚悟の方が大きかった記憶があります。
――2016年リオデジャネイロ五輪を目指し、実業団の日本ユニシスに進まれるわけですが、左膝と右膝の半月板を損傷し2年連続で手術を経験されます。焦りや絶望感はありましたか?
奥原氏: 入社してすぐに右膝を手術して、リハビリで半年ほどかかり、よし、これからリオを目指すぞという矢先に、今度は左膝の半月板を損傷しました。さすがに絶望しました。ただ、右膝の時は手術への決断の遅れがリハビリ期間をさらに長期化させたという強い後悔がありました。2回目の右膝の時は、リオ五輪まで2年を切っている時期だったので、待って治らないリスクを考えたら、すぐ手術をした方がいいと即決し、2カ月ほどで復帰することができました。
ただ、五輪レースはシード権争いを含めると実質2年間(ポイントレースは1年間)をかけて戦うため、スタートを切れていない状態でした。一瞬希望を失いかけましたし、間に合わないかもしれないという気持ちがどんどん大きくなりました。日本代表のスタッフや周りの方々からの温かい言葉にすごく勇気づけられ、また戻ってくるんだと強い思いを持ってリハビリをこなしました。
不戦勝で決まった銅メダル…喜びと複雑な心境が交差
――不屈の精神でリオ五輪への出場権を獲得。女子シングルス準々決勝で同じ日本の山口茜選手との対決を制してベスト4に進出しました。あの試合を勝ち切った瞬間を振り返ってください。
奥原氏: 茜ちゃんとはそれまでの対戦成績を含めて、公式戦で1ゲームも落としたことがありませんでした。しかし、あの五輪という舞台において、初めて1ゲーム目を奪われてしまったんです。その時、不思議なことに焦りは全く湧きませんでした。それよりも、コートの向こう側で、本気になっている茜ちゃんの姿勢に対して、「嬉しさ」が込み上げてきたんです。
その姿勢に対して、「私も中途半端じゃダメだな」と気合いを入れ直し、2、3ゲームを獲って逆転勝ちすることができました。私のバドミントン人生の中でも、本当に記憶に残り続ける試合になっています。
――準決勝でインド選手に敗れ3位決定戦に回りますが、相手の棄権によって「不戦勝」という形で日本バドミントン界初のシングルス銅メダルが確定しました。当時はどのような感情を抱いていましたか?
奥原氏: これに関しては、嬉しい気持ちと複雑な気持ちの「半々」で分かれます。勝負の世界に絶対はありませんから、日本の家族や応援してくれたファンの方々に、確実に喜んでもらえる「銅メダル」という目に見える成果を無事に持って帰ることができた事実は、本当に良かったなと心から安堵しました。ただ、今でも最後は自分のプレーを出し切って終わりたかったなという思いはあります。
退路を断ってプロ転向…東京五輪延期で心身ともに疲弊
――2018年に日本ユニシスを退社してプロ選手へと転向する大きな決断を下されました。
奥原氏: どうすれば五輪で金メダルにたどり着けるかをリアルにシミュレーションした時に浮き彫りになったのが、日本独自の「実業団」という環境の構造的な限界だったんです。バドミントン界において、実業団は選手たちの生活を守ってくれる素晴らしいシステムです。その一方で、世界の大会のスケジュールの隙間に、国内の団体戦が年2回も組み込まれてきます。
特に冬のリーグ戦は週末試合をした後の夜行便で飛び立ち、海外で試合を行った後、週末は国内で試合をするという、外国の選手と比べるとすごくタフなスケジュールをこなさなければなりません。リカバリーに当てる時間も少なく、大きなケガを経験した私にとって、それはリスク以外の何物でもありません。今でもどちらがよかったのか、模索はしていますが、自分のコンディションに合わせてスケジュールを組むことができたり、スポンサーさんとダイレクトなお付き合いができたりするので、応援してくださる方の思いを直に感じながら活動できることがプロの魅力だと思っています。
――2019年には世界ランク1位に浮上。最高の状態で2020年東京五輪を迎えようとした矢先、新型コロナウイルスの世界的パンデミックによって大会が1年間延期されました。
奥原氏: 延期が決まった当初、1年長く練習ができるという「ボーナスタイム」だと切り替えました。実際、延期されてからの最初の半年間は順調でした。しかし、オリンピックという究極の舞台に向けて、何年もかけてギリギリまで張り詰めさせてきたメンタルの糸を、さらにもう1年張り詰めさせることは、気持ち的にも疲弊が大きかったです。
コンディション的にも後半に崩れました。2021年3月の全英オープンの試合中にぎっくり腰になってしまい、腰をかばいながらプレーしていると、今度は首に寝違えたかのような症状が出てしまい…。病院で精密検査を受けたところ、首の骨が疲労骨折していると衝撃的な診断を下されました。全英オープンで優勝することはできたのですが、五輪直前の最も大切な時期に、練習を積み上げることができませんでした。
――ケガとの闘いの中で迎えた東京五輪は準々決勝で敗れ、2大会連続メダル獲得はなちませんでした。
奥原氏: 新型コロナウイルス禍で本当にスペシャルな大会になりましたが、改めて五輪はアスリートにとって特別な舞台だと実感しました。私たちは選手村には入らず、企業の研修センターのようなところに宿泊して生活していて、外部と接触することは固く禁じられていました。競技が終わり、日常生活に戻った時に、テレビでは当然のように五輪が放映されていました。選手として五輪の場所にいた時と、日常に帰って外から見る五輪とでは、やはり視点が変わりました。やっぱりスポーツは素晴らしいし、人の心を豊かにする素晴らしい文化だなと再確認することができました。
古傷悪化で寝返りすらままならず…パリ五輪落選が教えてくれたこと
――再び2024年パリ五輪への選考レースへと身を投じられましたが、結果として出場権を逃してしまいました。
奥原氏: 東京五輪が終わった瞬間に、もう3年後はパリ五輪だなと自然に向かうことができました。ただ、東京五輪で疲弊している中で心身ともにリフレッシュできずにパリ五輪へと向かってしまいました。2021年10月に右足首を捻挫して手術。リハビリの過程で古傷の右膝に痛みが出てきてしまって。ここからは膝の痛みとの闘いでしたね。
2022年には右大腿骨を疲労骨折しました。ただ、そのケガでパリ五輪が厳しいという認識なく、むしろ膝の痛みの方が苦しかったです。夜、寝返りを打つたびに膝の角度は変わると思うんですけど、毎回「大丈夫かな」って確認しなければなりません。まともに寝ることができず、私生活でさえも苦しくて、競技をしている感覚すらありませんでした。夜ベッドに入って寝ている最中でさえ、激痛でまともに眠ることができない日々が何カ月も続いていたんです。
それでもプロとしてスポンサーさんから支援をいただき、パリ五輪を目指すと宣言している以上、途中で諦めるという選択肢はありません。八方塞がりの状態が続いてすごく苦しかったです。結果としてパリ五輪に出場することはできませんでしたが、自分の中でベストを尽くすことはできたので、後悔なくやりきった自分を誇らしく思いました。
――「引退」の2文字は頭をよぎらなかったのですか?
奥原氏: 正直、レース中は頭をよぎりました。でも、膝の痛みとの向き合い方を分かってくれるトレーナーさん、トレーニングコーチと出会ってから回復の兆しが見えてきて「まだできるかもしれない」という希望が見つかりました。そこからは、競技を辞めるという選択肢がちらつくことはありませんでした。右膝はまだ疲労が溜まったりすると違和感はでますが、私生活まで苦しいような痛みからは脱却することができたので、今は毎日「生きてて幸せだな」って日々を感じています(笑)。
――2028年にはロサンゼルス五輪が控えています。これからのバドミントン人生における「次なる目標」を教えてください。
奥原氏: 今回、ロス五輪を目指すにあたって、結果どうこうではなく、自分の生き様を表現できる舞台にしたいと思っています。そう気づかせてくれたのは、2026年2月に行われたミラノ・コルティナ冬季五輪で金メダルを獲得したある選手の言葉でした。
「私はここにメダルを獲りにきたわけじゃない。この舞台で私を表現するためにきた」
この言葉がスッと腑に落ちたんです。今まではバドミントンという競技が人生の全てだと思っていましたが、スポーツはやはり「娯楽」で、人の心を豊かにするもの。でも、その根底には「生きる」ということがあるんです。生きることをおざなりにして、今まで競技をやってきましたが、生きることが充実することで、もっと自分を表現できる。その表現を五輪の舞台でできたら、こんなにも幸せなことはありません。
――最後に、応援してくれるファンや読者の方々に向けて、メッセージをお願いします。
奥原氏: 私には他の選手たちのような特別な身体能力も、天性の才能もありませんが、一生懸命努力、模索し、自分と向き合い続けたことで、ここまでたどり着くことができました。自分にとって、大事な価値観に出合う。そんな人生を歩むことができたら、幸せを感じて生きることができるのではないでしょうか。自分の人生を、そして何より自分を大切に、幸せに向かって過ごしていってほしい。今はそういう気持ちでいっぱいです。