パリ五輪レスリングで日本最重量級金メダリストになった日下尚。
幼少期の弱さや相撲での経験を糧に、泥臭く白星を重ねてきた。
「諦めなければ誰でも到達できる」。ロス五輪連覇で証明してみせる。
2024年パリ五輪レスリング男子グレコローマン77キロ級で金メダルを獲得した日下尚(くさか・なお)氏。日本レスリング史上最重量級金メダリストとなった男の原点は、決して「天才」のそれではありません。
3歳でマットに上がったものの、幼少期は「とにかく弱かった」と振り返ります。小学校時代は相撲に打ち込み、土俵で培った「押し込む力」や身体感覚をレスリングへと還元。自身の弱さと向き合い続け、泥臭く白星を重ねていった彼を突き動かしてきたのは、背中を追い続けた先輩への対抗心と、圧倒的な練習量でした。
日本体育大の先輩でもあり、同階級の屋比久翔平(やびく・しょうへい)選手という大きな壁を身近な目標として見上げ、愚直にその背中を追うことで世界の頂点へと駆け上がりました。自身を「凡人」と称し、特別視されることを嫌う日下氏。誰にでもチャンスはあるというメッセージを証明するため、2028年ロサンゼルス五輪での連覇を見据えています。
幼少期の葛藤から相撲との出合い、恩師や先輩との絆、そして金メダル獲得の舞台裏と今後の展望に至るまで、日下尚というアスリートの本質と覚悟に迫りました。(内田勝治=ライター)
結果が出なかった幼少期「運動神経が特別良かったわけではなかった」
――3歳からレスリングを始めた経緯と、当時のご自身の感触を教えてください。
日下氏: レスリングを始めたのは3歳の時です。僕の両親がレスリングをやっていたわけではありません。たまたま母と、僕の恩師となる先生が同じ職場だったことがきっかけです。もともと野球をやっていた父としては「将来的に野球をやるにしても、その身体作りの土台として」という感覚で、僕をレスリング教室に連れて行ったようです。物心がつく前に始めさせられたので、気づいたらマットの上にいたという感じです。
ただ、始めた頃は本当に弱くて…。初めて日本一のタイトルを獲ったのも高校3年生の時です。強くなるまでにかなりの時間がかかりましたし、運動神経が特別良かったわけでもありません。
正直に言うと、3歳から始めているのに全然勝てないことが当時はすごく恥ずかしかったんです。ナショナルチームの合宿や大会に行くと、同世代には幼少期から勝ち続けているエリートのチャンピオンばかりが集まるじゃないですか。その中で「3歳からやっているのに、なんでそんなに弱いの?」と思われるのが嫌で、ずっと引け目を感じていました。
――小学校、中学校時代には相撲にも打ち込み、高校からレスリング一本に絞られたと伺いました。
日下氏: 小学校の先生が相撲をやっている方で、僕がレスリングをやっているのを知って「相撲をやろう」と休み時間のたびに熱心に誘ってくれたのがきっかけでした。最初はまわしを締めるのが嫌で断っていたんですが、「試合だけでも出てみろ」と言われて出場したら負けてしまって。そこから悔しくて練習に通うようになり、気づけば全国大会に出場するまでになっていました。小学校時代は、むしろ相撲の練習量の方が多かったくらいです。中学校でも部活動の壮行会で相撲部のプラカードを持って壇上に立たされていたぐらいですから(笑)。
ただ、僕の中で相撲は「レスリングを強くするためのもの」という位置づけでした。当時の僕は体重が60キロ程度しかなかったのに、相撲の大会に行けば100キロ超の相手と戦わなければならない。さすがに体を大きくし続けるのは無理だなと実感していたので、高校からレスリング一本に絞りました。
――相撲での経験はどのようにレスリングへ生きていますか?
日下氏: 僕の恩師もレスリング選手に相撲を勧めるように、僕のレスリングのベースには相撲があります。グレコローマンスタイル(上半身のみを使って技を掛け合うレスリングの競技スタイル)は相手を押し出せばポイントが入りますし、押し込む力や体幹の強さはまさに相撲そのものです。言ってみれば「まわしのない相撲」をやっているような感覚ですね。僕をきっかけに、相撲のトレーニングを取り入れるレスリング選手が増えたように思います。
――高松北高(香川)時代に全国制覇を果たすなど、一躍注目される選手へと成長しました。
日下氏 :高松北は中高一貫校だったので、6年間のスパンでしっかりと強化してもらいました。高校時代は世代別の全国大会で優勝したり、シニアの全日本選手権でも3位に入ったりすることができました。幼少期から勝てなかった時期にコツコツ積み重ねてきた技術や、相撲で培った押し込みが、成長期に伴う体格の変化と噛み合い始めて結果に結びついた時期です。
いまでも自分の中で原点となっている試合があります。第1シードで出場した国体で、まさかの1回戦負けを喫してしまったんです。全国大会で勝ち始めて調子に乗っていた時期でした。あの敗戦は本当に大きな衝撃でした。どれだけ勝っても調子に乗ってはいけないと強く思い知らされた試合でしたし、結果に一喜一憂せず、常に練習し続けるという意識の原点があの敗戦にあります。
――高校卒業時は日本体育大学への進学を選択されました。どのような覚悟を持っての決断だったのでしょうか。
日下氏: 親からは東京の有名私立大学に進学してほしいと言われていました。ただ、僕自身は五輪選手を多数輩出している日体大でレスリングをやりたかったので譲らず、最後は押し切る形で進学を決めました。特待生ではなく学費もかかる形だったので、母とは3日ほど口をきかない喧嘩になりました(笑)。
でもそれによって、「五輪に行けずに、ぬくぬくと田舎に帰ってくるようなことは絶対にできない。親に合わす顔がない」という、退路を断つ覚悟が固まりました。あの選択が、僕の人生における最大のターニングポイントだったと感じています。もし違う大学に進学していたら、今の自分は存在しません。
日体大に入ってからは世界観が180度変わりました。高校時代は部員が数人しかいない環境でしたが、日体大には60~70人のトップレベルの選手がいました。監督の松本慎吾先生は足が丸太のように太く、圧倒的な存在感でした。朝、夕の全体練習だけでなく、昼にマンツーマン練習が始まり、一日中ボコボコにされ続けました(笑)。その過酷な環境に必死で喰らいついたことで、圧倒的に強くしてもらえたと思っています。
五輪階級の77キロ級変更で苦心した「勝ちパターン」の確立
――大学進学後、五輪階級である77キロ級への肉体改造と、階級変更直後の壁をどのように乗り越えていかれたのでしょうか?
日下氏: 77キロ級への増量は本当に大変でした。僕はもともと食が細く、太りにくい体質なんです。プロテインを1日5回飲んだり、3食しっかり食べた後に先輩からコンビニ弁当を2つ渡されたりと、必死で身体を大きくしました。
それでも最初は全く勝てませんでした。1回戦や2回戦でコロッと負ける日々が続きました。五輪階級の選手はフィジカルも本気度もまるで違います。当時の僕は、自分の勝ちパターンを理解していなかったことも負け続ける原因でした。スポーツには必ず自分の強みを最も生かせる時間帯や展開があります。相手に合わせるのではなく、いかに自分の得意なスタンドで押し込む展開に引きずり込めるか。時間をかけて自分の勝ちパターンを確立していきました。
――日体大の先輩であり、東京五輪銅メダリストの屋比久翔平(やびく・しょうへい)選手はどのような存在でしょうか?
日下氏: 屋比久先輩の存在はめちゃくちゃ大きかったです。日本のレスリング界では「重量級で日本人が世界に勝つのは難しい」という固定観念のようなものがありました。でも、日体大を拠点に練習をしていた屋比久先輩が世界でメダルを獲る姿を見て、意識がガラリと変わったんです。スパーリングでポイントが取れることもあったので、憧れというよりも「この人を超えれば世界で勝てる」という具体的な物差し、最も近い目標になってくれました。遠い世界の話ではなく、目の前の基準として捉えられたことが大きかったです。もちろん憧れ、尊敬する先輩ですが、マットに上がったらライバルとして見るように意識しました。
2023年の全日本選抜決勝で屋比久先輩に勝った時も、もちろん嬉しさはありましたが、浮かれる気持ちは一切ありませんでした。僕にとって屋比久先輩に勝つことはゴールではなく、五輪で金メダルを獲るために必要なステップでした。周囲は僕が五輪に行けるなんて思っていなかったかもしれませんが、自分だけは自分を100%信じていました。
「俺、本当に優勝しちゃったの ? 」 パリ五輪金メダルの実感
――世界選手権での3位を経て立ったパリ五輪の頂点。表彰台からの景色と、地元・香川県への想いをお聞かせください。
日下氏: 初出場となった2023年の世界選手権では、1回戦で海外の屈強な強豪に勝てた時、「よし、行けるぞ」と確信しました。準決勝で敗れて3位決定戦に回った時はものすごいプレッシャーでしたが、ここで勝ち切って表彰台に立ち、五輪内定を決めた瞬間は本当に嬉しかったですね。
ただ、迎えたパリ五輪本番で金メダルを獲得した瞬間は、正直に言うと夢の中にいるようなフワフワした感覚で、あまりはっきりと覚えていないんです(笑)。「俺、本当に優勝しちゃったの?」という困惑に近い感覚すらありました。だからこそ、次のロサンゼルス五輪では、しっかりと噛み締めながら表彰台のてっぺんに立ちたいと思っています。
地元の香川県には心から感謝しています。香川県出身者として個人種目初の金メダリストとなり、現在は観光大使も務めさせていただいています。弱かった幼少期からずっと温かく応援し続けてくれた地元の皆さんの存在が、僕の最大の心の支えでした。
高校時代は練習後に毎日うどんを食べに行っていました。先生から「体重を増やすために5玉食え」とノルマを出され、必死に胃袋に流し込んでいたのもいい思い出です。今でも昼時になると無性にうどんが食べたくなるのは、DNAに刻まれているからですね(笑)。香川で生まれ育ち、最高の恩師や仲間に出会えた巡り合わせに感謝しかありません。
――次なる目標である「五輪2連覇」へ向けて、ご自身の内面や技術はどう進化していると感じていますか?
日下氏: パリ五輪が終わった直後は「これで引退して別の道に行こうか」と考えたこともありました。ですが、周囲の方々からの「おめでとう!次も頑張れ!」という言葉に触れる中で、意識が変わりました。男子グレコローマンで五輪連覇を達成した日本人はまだ一人もいません。歴史に名を刻むのは自分の使命で、それがレスリングへの恩返しだと思ってやっています。
パリの時の自分は、振り返ってみればまだまだ「凡人」でした。金メダリストという過去の栄光に甘んじることなく、筋力面でもレスリングの技術面でも、確実に一回り大きく成長できている実感があります。大技を狙うような甘い考えを捨て、泥臭く愚直に自分のスタイルを貫き続けること。自分自身との対話を止めないことが、さらなる進化につながると信じています。
高橋尚子さんにあやかった「尚」の名に恥じぬ生き方を
――名前の「尚」は、生まれ年に開催されたシドニー五輪の女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子さんにあやかって名付けられたエピソードは有名です。
日下氏: 実はパリ五輪で金メダルを獲った後、高橋尚子さんには実際にお会いする機会がありました。幼少期から「尚」という名前を背負って生きてきて、心のどこかで高橋尚子さんみたいに頑張らなければいけないという思いがありました。そのことをご本人にお伝えしたら、「もう『尚』という名前を追わなくていいよ。これからは『日下尚』という人間の人生を作っていってね」と温かい言葉をかけていただき、これからは自分の足で新しい歴史を作っていく勇気をもらいました。
――最後に、これから自分の道を切り拓こうとしている若い世代や読者へ向けて、メッセージをお願いします。
日下氏: これから目標に向かって挑戦する皆さんにも、失敗を恐れずにどんどん挑戦してほしいと思います。失敗なんて大したことではありません。挑戦しない人生よりも、一歩踏み出すことで可能性は無限に広がります。僕にとって「努力」とは、成功するまで諦めずに挑戦し続けることそのものです。泥臭くやり続ければ、絶対に成果はついてきます。僕のような凡人が五輪王者になれたように、誰だって頂点に立てる可能性がある。ロサンゼルス五輪で連覇を達成することで、「諦めなければ誰でも到達できる」という希望を周囲に証明してみせます。