不遇な少年時代を救ったのは動物の鳴き声と教室での声帯模写。
お笑い芸人JPはコロナ禍の代役指名で一躍脚光を浴びた。
過酷な下積み時代を乗り越えた男の泥臭い生存戦略と野望に迫る。

ダウンタウン・松本人志氏の「代役」としてスポットライトを浴び、一躍時の人となったものまねタレントのJP氏。

不遇の少年時代、いじめの標的から逃れるために身につけた声帯模写。掃除の時間に誰よりも真面目に手を動かしたことでつかみ取った進学の道。そして、幾度もの脱走やコンビ解散、フリーの下積み生活を経てはい上がってきた泥臭い足跡――。その半生は、華やかな芸能界の裏側に潜む、過酷な生存競争そのものです。

どんなに打ちのめされても「死ぬまでものまね」と言い切る信念の裏には、己の生身の弱さを知る者だけが持つ、冷徹なまでのセルフブランディングと「自分を信じ抜く力」が存在していました。

「諦めなければ自ずと道は開ける」。自身のスペックを卑下しながらも、決して夢の打席から降りようとしないJP氏が描く、次なる野望とは何か。過酷な修羅場を潜り抜けてきた男が語る生き方に迫ります。(内田勝治=ライター)

牛や豚や鶏の鳴き声から始まったものまねの原点

――まず、現在の主な活動内容について教えてください。研音という俳優中心の事務所に所属されているのも非常に珍しいですよね。

JP氏:今は役者もやりながら、本業はお笑い芸人、もっと言うとものまね芸人ですね。ものまねを軸にテレビの番組やものまね企画に出たり、地方の講演会やお祭りといった営業のイベントに出演したりしています。今いる研音という事務所は、長い歴史の中で「お笑い枠」が僕1人しかいないんですよ。本当にありがたい流れで入れていただきました。基本的には役者さんの事務所の中で、役者のお仕事が来たらお芝居もやらせていただく、というのが主な活動内容です。

 活動の8割くらいはテレビと営業ですね。SNSも一通りやっていますが、再生数やフォロワー数で仕事をしているという感覚はあまりありません。SNS発のお仕事をやらせていただくこともありますけど、やはり現場やテレビが自分の軸になっています。

――JPさんの原点についてお伺いします。生まれ育った滋賀県東近江市は、どのような場所だったのですか?

JP氏:東近江は本当に田舎、田んぼしかないようなのどかな街です。僕のものまねのルーツって、よく「学校の先生のマネ」から入る人が多いと思うんですけど、僕は実家に牛舎や豚舎、鶏舎があったんです。だから、最初に真面目にやったものまねは、牛や豚や鶏の鳴き声でした(笑)。それが僕の最初の原点です。

――なぜ動物のものまねをしようと思ったのですか?

JP氏:当時、友達がいなかったんですよ。だから放課後になると牛舎に行って、牛や豚に向かってものまねをしていました。竹林に行ってコオロギや鈴虫が鳴いていたら、「この虫と会話するにはどう発声したらいいか」と考えて、向こうの言語にこっちが合わせにいくような感覚です。幼少期はとにかく根暗で、人とのコミュニケーションがすごく下手でした。男3人兄弟の長男なんですけど、弟たちが文武両道で優秀、親からも比べられたりして…。僕は運動神経もめちゃくちゃ悪くて、サッカークラブにも流れで入っただけ。どんどん陰気になって、一人で部屋や動物舎にこもっているような暗い子供でした。

「掃除推薦」で高校進学…先生のものまね披露

――当時は将来、どんな職業に就きたいと考えていたのですか?

JP氏:リアルに思っていたのは獣医さんですね。とにかく生き物ばかりと触れ合っていたので、動物に関わる仕事がしたいとずっと思っていました。おばあちゃん子だったため、家では「必殺」シリーズや「赤かぶ検事」、「はぐれ刑事純情派」、「暴れん坊将軍」のような渋い番組ばかり見ていました。初めてやった有名人のものまねも「裸の大将放浪記」の芦屋雁之助さんでしたから(笑)。

――学校での人間関係はいかがでしたか?

JP氏:小中高と、ずっといじめられていましたね。元々身長が高くて目立ってしまうので、猫背になったり前髪を伸ばして目線を隠したりして、とにかく目立たない努力をしていました。でも、中学校に入った時、「このままじゃダメだ」と思って、勇気を出して学校の先生のものまねを教室でやってみたんです。そうしたら、それがウケていじめられなくなった。「ものまねを使えば笑いが取れるし、いじめを回避できるんだ」と気づいた瞬間でした。そこからウルトラマンや長瀬智也さんへとレパートリーを増やしていきました。

――勉強面や、高校進学の際のエピソードも独特ですね。

JP氏:勉強は本当に壊滅的で、500点満点のテストで100点も取れないレベルでした。運動もできない、勉強もできない。でも、学校が終わった後の「掃除の時間」だけは、他のやつが遊んでいる中で僕一人だけ黙々と真面目にやっていたんです。それを先生が見ていてくれて、「掃除推薦」という名目で高校に入学することができたんですよ。3カ月間、黒板拭きや窓拭き、ゴミ分別を愚直にやり続けた結果です。僕には高校に行く術がそれしかなかったし、受験勉強なんてまともにしたことがありません(笑)。

――進学された高校での生活はいかがでしたか?

JP氏:周りにはものまねをやる生徒が多かったですね。人前で先生のものまねをやったり…。人気者の人物が体育や国語の先生のものまねをする中、誰も目を付けていない美術の先生のものまねを披露したりしていたんですが、クラスには「ヤンキー」が多く、教壇の前でやると目をつけられるため、2人の友達と掃除用具入れの前に集まってひっそりと披露したりしていました。

ショーパブ時代に徹底した「事前準備」

――高校卒業後、エンターテインメントの世界へ進まれたきっかけは?

JP氏:「声優になればものまねや声を変える技術が生かせる」と勝手に思い込んで、高校卒業後に声優の専門学校に2年間通いました。でも、いざ通ってみると声優の本質は「声のお芝居」なんですよね。自分にはお芝居の技術がないと痛感して諦めました。そこからお笑いに興味を持って関西のNSC(吉本総合芸能学院)に入ったんです。でも、関西のお笑いって99%が漫才文化で、ピンでものまねをやっている人なんて一人もいなかったんです。養成所で出会った同期とコンビを結成しましたが、解散と同時期にNSCも中退することになりました。それでも、芸人自体を辞めるつもりはありませんでした。

――そこから東京へ向かうわけですね。

JP氏:絶対に東京でものまね芸人になると決めて、上京資金を作るために地元のダイハツの工場で半年間、期間社員として働きました。無遅刻・無欠席で真面目に働いていたら、上司が「こいつは社員になりたいんだな」と勘違いして、就職推薦の書類まで作ってくれたんです。「通常であれば1~3次面接があるけど、そこをすっ飛ばして、一筆書いてくれたら社員になれるようにしておいたから」と言われたんですけど、「僕、東京に行って芸人になります」と言ったら「何言ってるんだ!」と怒られました(笑)。それで資金を貯めて上京し、ワタナベエンターテインメントの養成所に入りました。

――上京後はどのようにして芸を磨いていったのでしょうか?

JP氏:養成所を卒業する時、事務所から「お前のものまねの売り方が分からない」と言われて正式所属になれず、フリーになりました。そこから20代は、赤坂のショーパブで約10年間働きつつ、ものまね芸人として活動してきました。

そこでは、人間関係の立ち回り方と、生き残るための「嗅覚」を学びました。僕らは「ものまね」という形のない目に見えない商品を売っているので、すごく舐められやすいんです。だから、ただ媚(こび)を売るのではなく、ちゃんと芸を評価してくれる人を見極める目が養われました。

あとは徹底した事前準備です。社長さんたちに呼ばれたら15分で駆けつけられるようにあえて港区の格安物件に住んで、ジーパンのまま寝たり…。革靴とかは絶対に履かなかったですね。「ご飯食べさせてやるよ」と言われたら、次の日の朝と昼の分の焼肉弁当をお土産でおねだりして食費を浮かせたり(笑)。自分には芸の才能もスペックもないと分かっていたからこそ、足で稼いで、知恵を絞って生き残るしかなかったんです。

代役から始まったブレイク…「死ぬまでものまね」

――そして2018年から研音に所属。2022年の「ワイドナショー」での代役出演で一気にブレイクされます。

JP氏:2022年1月、松本人志さんが新型コロナウイルス感染者との濃厚接触の疑いで番組を欠席された際、収録前日にTwitter(現X)で僕を代役として指名してくれたんです。そこから、東野幸治さんが同じく代役として指名した原口あきまささんとともに、番組本編のオープニングで、ほぼアドリブのパロディコントを披露したのがきっかけでした。その4日後の「ラヴィット!」では、川島明さんの代役もやらせていただきました。コロナ禍での代役がなければ、今のような売れ方はしていなかったと思います。

――松本さんの活動休止など、環境の変化に対してはどのように捉えていらっしゃいますか?

JP氏:僕は「元々なかった命」だと思っているんです。フリーでくすぶっていた自分を研音さんに拾っていただき、松本さんのものまねで世に出していただいた。討ち死に覚悟で、元々ゼロだったと思えば、どんな試練もチャンスにしか見えないんです。神様が、「売れた後、次のお前はどう動くんだ?」と新しいハードルを与えてくれたんだと捉えました。松本さんのものまねができない時期があったからこそ、あえていろいろな方のものまねを繰り出して、「JPって色んな引き出しがあるんだな」と知ってもらうきっかけになった。すべては前向きなプレゼンテーションの場だと思っています。

――ご自身の長所も短所も受け入れながら戦い続けてきたJPさんが今、何かに悩んでいる人へメッセージを送るとしたら?

JP氏:「諦めなければ自ずと道は開ける」ということです。滋賀の田舎で牛や豚に向かって喋っていたいじめられっ子で、勉強も運動もできず、何のスペックも持たない僕が、身一つで東京に出てきて、こうして芸能界で生き残っている。これが何よりの証拠です。みなさんの方が僕より圧倒的に人間としてのスペックが高いはずなんです。だからこそ、「自分を信じ抜く力」を持ってほしい。「ここまででいいや」と妥協せず、「ここまでやれている」と自分を一番に信じて打席に立ち続ければ、必ずボールは飛んできます。

――最後に、今後の野望をお聞かせください。

JP氏:僕は死ぬまで、墓場までものまねをやります。これは生涯ブレません。その上で、幼少期から大好きだった「ウルトラマン」「仮面ライダー」「スーパー戦隊」といった特撮ヒーロー作品や、「ジブリ」「ポケモン」「鬼滅の刃」「ワンピース」といった世界的な作品に、出演者として全部出ることが今の野望です。19歳の頃、「その顔と年齢でヒーローになれるわけない」と周りから笑われました。でも今、お笑い芸人でも仮面ライダーに変身できる時代になっている。「思い続ければ絶対に叶う」ということを証明するために、僕はこれからも泥臭く生き続けたいと思っています。

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