1939試合連続出場を誇る鳥谷敬氏、ケガと闘い続けた現役生活。
「平均点」だから貫いた徹底準備と、WBC台湾戦の二盗の真相。
プロの指導者にならない理由と、球界改革へ託す想いを語り尽くす。
プロ野球歴代2位の1939試合連続出場、遊撃手としては歴代1位の667試合連続フルイニング出場…。阪神タイガースの頼れる主将として数々の伝説を打ち立てた鳥谷敬(とりたに・たかし) 氏の野球人生は、華々しい記録の陰で、絶え間ないケガとの闘いでもありました。
幼少期に培った多種目での体の使い方、中学・高校時代を襲った慢性的な激痛。どん底のなかで「プロ野球選手になる」と腹をくくった大学1年時、部屋のテレビを捨てて退路を断った瞬間から、彼の運命の歯車は大きく動き出します。
プロ入り後は、自身のタイプを「平均点」と客観視し、ライバルたちにポジションを渡さないための徹底した「出続ける準備」を貫き通しました。2013年WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の台湾戦で見せた二盗の真相、パ・リーグ移籍と2軍暮らしで得た人間的成長、そして引退後の今、プロ野球界の未来を見据えて構想する「セカンドキャリアと指導者資格制度」の真意まで――。 「本質」からブレることなく戦い続けてき男が、これまでの歩みと、これからのスポーツ界へ託す想いを、偽りのない言葉で語り尽くしてくれました。(内田勝治=ライター)
両膝の成長痛に悩まされ続けた中学時代「一番つまらない時期だった」
――野球を始めたきっかけから伺いたいのですが、幼少期は野球一筋というわけではなかったそうですね。
鳥谷敬氏(以下、鳥谷氏): 正直、始めたきっかけ自体はよく覚えていないんです。小学3年の時に「野球をやりたい」と言って始めたみたいですが、当時は土日だけ。平日は柔道をやったり、仲間とサッカーをしたり、色々なスポーツをやっていました。野球だけをメインに頑張るという感じではなかったですね。
サッカーで培った足の使い方は内野守備のステップと全く同じですし、柔道の受け身や体の使い方は、ダイビングキャッチや倒れながらの送球にそのまま直結しました。幼少期に多種多様な動きを経験していたことが、後々の身体のバランス感覚や、大きなケガをしにくい身体作りに間違いなく繋がったと思っています。
――本格的に野球に専念された中学時代ですが、成長痛にかなり悩まされたと伺いました。
鳥谷氏: 中学時代は公式野球チームに入りましたが、両膝の成長痛でほとんど野球ができませんでした。ちょうど中学1年で右打ちから左打ちに変えた時期でもあり、膝は痛いし思うように打てないしで、野球人生で一番つまらない時期だったかもしれません。両親が右も左も両方使えるように育ててくれたことや、当時イチローさんや高橋由伸さんといった左打者の全盛期だったこともあって左に変えたのですが、最初は全く打てる気配がありませんでした。
――膝の痛みもあり、中学で野球をやめようとまで考えたそうですね。そこから高校でも野球を続けようと踏み止まった理由はどこにあったのでしょうか?
鳥谷氏: ほかに特別やりたいこともなかったですし、勉強もそこまでできるわけでもない。選択肢がなかったというのが本音です。ケガばかりで目立った実績もなかったので、高校からのスカウトはゼロ。公式戦も何試合か捕手で出ただけで、膝が痛い日はしゃがむことすらできませんでした。最初は都立に行こうとしていましたが、親から「野球だけは続けたら?」と言われて続けた感じです。結局シニアリーグの繋がりで埼玉の聖望学園へと進みました。高校に入ってからも膝の痛みが続き、グラウンド外のベンチに座っているだけの日々。まともに練習に復帰できたのは、1年生の秋口からでした。
――高校2年からは投手としてもマウントに上がり、最速146キロを計測するなど活躍されました。
鳥谷氏: 1学年上の代の投手層が薄かったためやり始めたのですが、2年の夏に投げすぎて肩を壊し、半年間まったく投げられなくなりました。その間ひたすらランニングに専念した結果、復帰後に球速が15キロも上がっていたんです。そこが大きな転機でした。3年の夏はショートを守りながら最後は抑えとしてマウンドに上がり、甲子園にも出場することができました。最速で146キロぐらい出ていたと思います。
早稲田大で1年春からレギュラー…テレビを捨て「プロへの準備」
――プロからの注目も集まる中、大学進学を選択された理由は何だったのでしょうか?
鳥谷氏 :高校からプロに行くなら投手か外野手という評価でした。ただ、自分としては内野手がやりたかった。実質1年ほどしか投手をやっておらず、毎日試合に出たいという思いが強かったんです。家がそこまで裕福ではなかったので、社会人野球に行くか、特待免除のある大学を探していました。そんな時に早稲田大学から声がかかり、セレクションを受けに行きました。
学費免除は一切ありませんでしたが、両親が「借金をしてでも、将来のことを考えたら早稲田に行った方がいい」と背中を押してくれたんです。当時は東京六大学や早稲田の凄さすらよく分かっていませんでしたが、両親のおかげで進学を決意することができました。
――恩師である野村徹監督の指導で、特に印象に残っていることや、大学時代の思い出を振り返ってください。
鳥谷氏: 野村監督は一切の特別扱いをしない方でした。どれだけレギュラーで試合に出ていようが関係なく、グラウンド外で問題を起こせば即座にメンバーを外れたり、時には退部させられたりと、一貫した厳しさがありました。「野球さえできればいいわけじゃない」という人としてのあり方を教えていただきました。炎天下でもグラウンドに立ち続ける監督の姿勢も含め、野球を通じて人間として成長させてもらった4年間でした。
幸運にも1年春から試合に出させていただきましたが、リーグ戦でのプレッシャーは全く感じませんでした。なぜなら、1年の時には「プロ野球選手になる」と固く決めていたからです。まず真っ先に寮の部屋のテレビを捨てました。夜の9時から11時といった隙間時間に、なんとなくテレビを見て過ごす時間を一切排除したかったんです。その時間を体のケアやトレーニング、あるいは睡眠や食事といった「プロになるための準備」だけにすべて費やしました。自分がどうなりたいのかを明確に決めたことで、やるべき課題がくっきりと見えてきた瞬間でした。
大学でのタイトルは自分にとって単なる通過点に過ぎませんでした。大学のタイトルに満足するのではなく、「プロに行ってからどう生き残るか」「どう結果を出すか」という先のことばかりを考えていました。アマチュア代表としてダイエー(現ソフトバンク)のキャンプに参加させてもらった際、プロのレベルの高さを肌で知って「今のままでは到底通用しない」と痛感したことも大きかったですね。
骨折しても強行出場…「平均点」の危機感が生んだ鉄人伝説
――2003年ドラフト自由獲得枠で阪神タイガースに入団されます。関東出身の鳥谷選手が阪神を選んだ決め手は何だったのでしょうか?
鳥谷氏: 一番は本拠地が土のグラウンド(甲子園球場)であることです。アメリカ遠征でドジャー・スタジアムなどを目にして「将来はこういう場所でやりたい」という思いが芽生えました。メジャーで活躍する内野手を考えた時、人工芝のチームよりも土のグラウンドで揉まれてきた選手の方が適応力が高いと感じていたんです。幼少期の膝の痛みの記憶からも、人工芝による膝への負担を避け、長く現役を続けたいという計算がありました。
また、当時声をかけていただいた巨人、横浜(現DeNA)、阪神の中で、遊撃のポジションにどのような選手がいるかを冷静に分析しました。巨人は二岡智宏さん、ベイスターズは石井琢朗さんという絶対的な存在がいたのに対し、阪神は藤本敦士さんが頭角を現してきた段階。どこが最も早く試合に出てチャンスを掴めるかを総合的に判断した結果、阪神への入団を決めました。
――プロ1年目から101試合以上に出場し、2年目からは不動のレギュラーとして13シーズン連続全試合出場という驚異的な記録を打ち立てられました。試合に出続けられた原動力は何だったのでしょうか?
鳥谷氏: 試合に出続けないと生き残れないという危機感です。毎年、ホームランを打てる選手や足が抜群に速い選手など、一芸に秀でた魅力的な新人や外国人が入ってきます。対して自分は、あらゆるプレーが「平均点」のタイプ。一度ベンチに下がって他の選手にチャンスを与えてしまえば、二度とポジションを取り戻せないのではないかと感じていました。監督やコーチに「他の選手を使う」という選択肢を与えないために、どんなケガをしてもグラウンドに立ち続ける必要があったんです。
――顔面骨折や肋骨骨折など、数々の重傷を負いながらも試合に出続けました。
鳥谷氏: 当然、激痛ですし、休めるものなら休みたかったですよ(笑)。でも、自分の中で「休む」という選択肢自体を消していました。鼻を骨折した時も「休むか」ではなく、「明日痛くなくプレーするためにはどうすればいいか」「患部に当たらないフェイスガードを朝までにどう作らせるか」ということしか頭にありませんでした。それに、先輩である金本知憲さんが骨折しながら右手一本でヒットを打つ姿を目の前で見せつけられていましたからね。あの背中を見ていたら、ちょっとの骨折くらいで休むなんて言えません(笑)。金本さんが骨折しても試合に出られるということを証明してくれたおかげで、首脳陣やトレーナーも自分の出場を許してくれたのだと思っています。
WBC台湾戦で伝説の二盗「迷いは1ミリもなかった」
――日々のコンディション維持において、独自に取り組んでいたセルフケアはありますか?
鳥谷氏: 自分の動きを毎日確認するようにしていました。野球は毎日試合があるので感覚が麻痺しがちですが、疲労や歪みは少しずつ蓄積します。毎朝裸で立って骨盤の位置やアライメント、関節の可動域を確認し、違和感があれば試合前のトレーニングでフラットな状態に戻す。オフ期間の11月と12月はバットもボールも一切触らず、1年間の歪みをリセットするトレーニングだけに集中していました。この毎日の微調整の繰り返しが、長年の全試合出場を可能にしたのだと思います。
――鳥谷さんのキャリアを語る上で欠かせないのが、2013年WBC台湾戦、9回2死からの二盗です。あの土壇場での走塁は、ベンチからのサインだったのでしょうか?
鳥谷氏: 完全に自分の判断で行きました。「失敗したらどうしよう」なんて迷いは1ミリもありませんでしたね。「自分がこのまま一塁に留まっていたら負ける。行ったら勝てる」と信じて疑わなかったので、迷いなくスタートを切ることができました。
――その後、2020年にロッテへ移籍されます。セ・リーグとパ・リーグの違い、そしてロッテでの2年間で得たものは大きかったですか?
鳥谷氏: 非常に大きかったですね。指名打者(DH)制のあるパ・リーグは、平均点が高い選手よりも、何か一つの能力に突出し特化した選手が多いんです。ロッテ時代に一緒だった和田康士朗選手のように、高校時代は陸上部で野球から離れていたけれど、足の速さだけは超一流というスペシャリストがいる。そういった「一芸」に特化した選手たちが必死に泥を食んで這い上がろうとする姿を間近で見られたことは、私にとって衝撃的でした。
ロッテでは炎天下の2軍グラウンドで、20歳以上も年の離れた若手や育成選手たちと一緒に汗を流すこともありました。阪神で16年過ごしてそのまま引退する道もありましたが、泥臭く1軍を目指す若者たちと同じ目線で野球に向き合ったロッテでの2年間は、一人の人間として大きく成長させてもらったかけがえのない時間でした。
プロの指導者にならない理由…指導者資格創設へ挑むセカンドキャリア
――引退後、評論家やNPO活動、社会人野球パナソニックのコーチと多方面でご活躍されていますが、プロ野球の監督やコーチといった現場の指導者になるお考えはあるのでしょうか?
鳥谷氏: 今のところ、プロの指導者になりたいという思いは全くありません。野球界の中だけに留まるのではなく、もっと広い社会や世界を見たいという思いが強いからです。 今、私が最も関心を持って取り組んでいるのが、部活動改革や子どもたちのスポーツ離れ防止、そしてアスリートの「セカンドキャリア」と「指導者資格制度の構築」です。
サッカーなどは指導者ライセンス制度が確立されていますが、日本の野球界にはそれがありません。実績や名前がある人物が感覚だけで教えてしまうことが多いんです。教えるための明確な「資格制度」を設ければ、本気で指導を学びたい人が知識を身につけ、それがそのまま引退後のセカンドキャリアとしての職業になります。元プロの知名度だけで指導するのではなく、正しい知識を持った人間が正当に評価される仕組みを作りたい。
私が生きている間にすべてが変わることはないかもしれません。ですが、プロの監督になること以上に、そうしたスポーツ界の根幹にある仕組みを変革していくことの方が、自分にとってはるかに価値があり、情熱を注げる仕事なんです。
――最後に、鳥谷さんのように自分の人生を切り拓き、目標を達成したいと願う人々へメッセージをお願いします。
鳥谷氏: 「~になりたい」と思っている間は、絶対に夢は叶いません。大切なのは、「自分はこうなる」とはっきり決めることです。なると決めた瞬間から、達成までの残り時間と、今目の前でやるべき具体的な課題が明確に浮かび上がってきます。自分のなりたい姿を覚悟を持って決めること。それこそが、人生を大きく左右するのではないかと思っています。