かつて、高校野球の名門・愛工大名電(愛知)で甲子園の土を踏み、東京六大学リーグの名門・明治大学、そしてプロ野球の読売ジャイアンツと、エリートコースを歩んだ選手がいました。柴田章吾(しばた・しょうご)氏は、小学6年時に全国制覇を成し遂げるなど、「天才投手」として将来を嘱望されていましたが、中学3年生の時に宣告された厚生労働省指定の難病「ベーチェット病」を発症。その後は、「同じ病に苦しむ人々を勇気づけたい」という一心でマウンドに立ち続け、プロの世界まで登り詰めました。

2014年の現役引退後は、大手外資系コンサルティング会社への転職という、アスリートとしては前例のない転身を果たしました。そこで培ったビジネススキルを武器に起業すると、現在はシンガポールに拠点を置き、東南アジア諸国で「日本の野球文化を輸出する」という壮大なプロジェクトを推進。2024年は「アジア甲子園大会」を実現させました。

難病、挫折、そして異業種での武者修行…。その背景にある緻密な戦略と、夢を実行に移すための哲学に迫りました。(内田 勝治=ライター)

――現在の活動内容を教えてください。

柴田章吾氏(以下、柴田氏):シンガポールに住みながら、スポーツやエンターテインメント領域を中心としたコンサルティング業務をやっています。また、協賛企業を募り、日本の高校野球でやっている甲子園大会を海外に輸出しようというプロジェクトを立ち上げて、2024年から「アジア甲子園」を開催しています。

 もともと、父と公園でキャッチボールをしたりしていましたが、小学2年生から軟式野球を始めました。その後、4年生からリトルリーグ、6年生でボーイズリーグのチームに移り、4番・投手として全国制覇を経験しました。自分で言うのも変ですが、いわゆる「神童」のように扱われ、将来は当然プロへ行くものだと思っていました。中学に上がっても順調に成長し、全国レベルの高校20校以上からスカウトを受けました。

――その輝かしい未来が、中学3年生で突然の暗転を迎えます。

柴田氏:中学3年生の4月です。海外遠征も控えていた時期でした。突然、お腹の右下に激痛が走ったんです。最初は盲腸かと思いましたが、熱が40度まで達し、口の中にはえぐれるような口内炎が20個以上もできました。触れるだけで腹痛が走るような、普通の病気ではない感覚がありました。

 検査の結果、「ベーチェット病」という病名を告げられました。医師から「ベーチェット病か、クローン病か、潰瘍性大腸炎のどれかだ」と言われた時、僕は「ベーチェット病が一番名前がかっこいいですね」と言ったぐらいです(笑)。当時はまだ病気の重さを理解していなかったし、病院にも行ったことがなかったので、「治るものだ」と信じて疑いませんでした。

 ただ、目にくると失明の恐れもある病気で、僕を熱心に誘ってくれていた強豪校も、病名が分かった途端に連絡が途絶えました。

――多くの高校が獲得を見送る中、愛工大名電が迎え入れてくれました。

柴田氏:そんな状態でも、倉野光生(みつお)監督は、「3年生の夏までリハビリをして、最後の夏に甲子園へ行こう」と言ってくれました。僕の病気のことをすごく真剣に考えてくださる監督さんだと思い、愛工大名電への進学を決断しました。

 ただ、入学後は、ステロイドの投薬量が多い時期は、激しい運動を禁じられていました。 3学年で50人近い部員が同じフロアで寝食を共にする中、僕だけが別メニューだったりするので、「あいつはサボっているんじゃないか」という視線は痛いほど感じていました。

 なかなか追い込む練習はできなかったのですが、2年生の終わりぐらいからみんなの半分ぐらいの練習ができるようになりました。「無理というまでは続けさせてあげよう」と、三重から愛知に送り出してくれた両親にも本当に感謝しています。

愛工大名電で果たした甲子園出場「涙が止まりませんでした」

――2007年、3年夏の甲子園出場を決めた瞬間の心境を教えてください。

柴田氏:3年間、人前で泣くことはありませんでしたが、決勝で甲子園が決まった瞬間だけは全てが「走馬灯」のように思い起こされ、涙が止まりませんでした。甲子園のマウンドで投げた際、全国から100通を超える温かいお手紙をいただいたことも忘れられません。ベーチェット病の子を持つ親御さんや、闘病中の方々から「励みになりました」というメッセージを見て、同じように苦しんでいる方々の励みになれるような3年間を過ごせたと実感しました。

――その後、明治大学へ進学されます。同期には野村祐輔投手(元広島)がいました。

柴田氏:大学1年の春に野村祐輔(広島カープ)とともにメンバー入りしました。そのシーズンに145キロを投げてデビューしましたが、高校時代に基礎的なトレーニングをしていないのですぐヘルニアになりました。さらに2年生の終わりに「イップス」になり、そこから外野手に転向したり、投げられるようになってまた投手に戻ったりの繰り返しでした。病気自体はだいぶよくなってはいましたが、野球がうまくならず、本当にもがいた4年間でした。

――早くから就職活動の準備をされていたそうですね。

柴田氏:ある程度、野球を終えた後のセカンドキャリアは思い描いていました。だから大学では、野球を続ける組ではなく、就職活動組と行動をともにすることが多かったです。どういうところに就職したらどんな仕事ができるか、海外駐在があるのか、30歳でいくらぐらい給料をもらえるのかといったことをいろいろと調べていました。

 大学4年の夏、巨人2軍との交流戦で登板の機会をいただき、3回を完全に抑えることができました。その秋のドラフトで、巨人から投手として育成3位指名を受けました。善波達也監督(当時)からも「(プロに指名されるという)こういうチャンスはなかなかないから、行ってみたらどうだ?」と背中を押してもらいました。

 もちろん、プロのレベルが高いというのは分かっていました。内海哲也さんや杉内俊哉さんといった超一流の凄みを肌で感じられたのは財産でしたが、僕自身のイップスは完全には治りませんでした。牽制はできたのですが、捕手に向かって投げる時に、イップスの症状が出るんです。死球で出した走者を全員牽制で刺す試合もありました(笑)。

 最初に暴投を投げた時に、「こんなはずじゃない」と、混乱しながらも、いいところを見せようとする気持ちが強すぎたんだと思います。捕手の奥で後ろを向いている人がいると、「あの人に当たったらどうしよう」とか、「観客に当たったらどうしよう」とか、いろいろと考えると、どんどん投げられなくなるんです。みんなが練習を始める30分前に室内練習場へ入り、一人でネットにボールを投げて感覚を確かめる。肩や肘を消耗させながら、なんとか現役を繋いでいる感覚でした。

――3年間の現役を終えた2014年オフに戦力外を通告されます。その時の心境は?

柴田氏:後悔がないぐらいにトライしたので、戦力外になった時は「まあしょうがないか」と。高校で野球を辞めようと思っていた僕が、ここまで競技を続けられたのはすごくありがたいことだと思いました。

 実はその年の2月のキャンプ中に虫垂炎で手術をしたんです。最初はベーチェット病が再発したのかと思ったのですが、それを言ったらクビになると思ったので、我慢していたら宿舎の風呂場で倒れました。そこまでして頑張ったのだから、戦力外を告げられた時はすぐに切り替えることができました。選手として活躍する夢は諦め、野球界に貢献できるような仕事がしたいなと思って現役を引退しました。

巨人を戦力外後に見定めたセカンドキャリア

――引退後、巨人の球団職員を経て、大手外資系コンサルティングファームのアクセンチュアへ入社されます。この異例の転身は当時、大きな話題となりました。

柴田氏:球団職員は業務委託の1年契約なので、その期間中に就職活動をしました。電通、博報堂、伊藤忠商事、丸紅の4社を受けたのですが、最終面接で落ちたんです。その後、転職相談所で見つけたのがアクセンチュアでした。「あ行」の一番上にあったからという単純な理由もありました(笑)。調べていくうちに「ここで3年修行すれば、今回の面接で落ちた会社に中途で入れるだけのスキルと実績が身につく」と教えられたんです。

 アクセンチュアの面接では「3年ぐらいみっちり働いて、将来はメジャーリーグでお仕事がしたいと思っているので、そのための修行をしたい」と正直に伝えました。外資系らしく、僕のやりたいことやキャリアプランに興味を持ってくれたことが、採用につながったのだと思います。

――実際に入社してみて、ビジネスの世界はいかがでしたか?

柴田氏:最初はITコンサルティングで官公庁の仕事に携わりました。ただ、ビジネスがどういう風に動いているかということが学びたかったので、2年目からは製造・流通本部という部署で、製造業者などにITを使ってどういうふうに業務改善をするかといったことをやっていました。

 2年目の途中から転職活動を始め、もともと希望していた企業から内定をいただきました。ただ、その時は、海外で働きたいとか、スポーツに関係する仕事がしたいという気持ちが強くなっていました。外資系ということであまり仕事に縛られない生活をしていたので、自由なことをやりたいと思った時に、自分で会社を作った方が早いなと思い、2019年にNo border(東京・渋谷)を創業しました。

 前職でフィリピンに結構つながりができていたので、そこで野球を広げて、アカデミー授業をしようと思っていたんです。ただ、その矢先に新型コロナウイルスの大流行が始まりました。ロックダウンで外にも出られず、野球どころではなくなり、フィリピンで企画していたものすべてを諦めざるを得なくなりました。

 2020年3月に日本へ帰国し、元プロ野球選手でコーチングをしていた高森勇旗さんに相談したところ、「今、自分が一番売り上げを作れるものは何か」と聞かれました。そこからITコンサルティング会社として、ほぼフリーランスのような形で案件を取って仕事をするという時期が2年ほど続きました。

 ただ、ずっとパソコンの前にいたのですが、全然満たされない。お金こそ貯まりましたが、「何のために起業したのか」と自問自答する日々が続きました。そこから、たくさんの人に影響を与えられるようなプロジェクトを立ち上げたいと思うようになり、「アジア甲子園」の構想へとたどり着きました。

 「アジア甲子園」というネーミングは、東大合格を目指す漫画『ドラゴン桜』の著者である三田紀房先生のアイデアなんです。三田先生は「野球を広く普及したいなら、アジアで”甲子園”をやったらいいんじゃないか」と。最初は、日本で商標登録されている「甲子園」を海外の野球大会に使用することは不可能だと考えていました。ただ、三田先生は「絶対に『甲子園』という名前をつけなさい。”〇〇野球大会”とは影響力が違ってくるから」という話をされて、そこから1年かけて関係各所に何度も足を運びました。最終的には阪神電気鉄道から正式に名称利用承諾を受けて、「アジア甲子園」が産声を上げました。

アジアの野球少年に「聖地」を…甲子園ブランドを世界へ輸出

――2024年12月にインドネシアで「第1回アジア甲子園大会」が開催されました。

柴田氏:2年目にはインドネシア、シンガポール、マレーシアの3カ国が参加し、テレビでも大々的に取り上げられました。吹奏楽やチアリーダー、地元のチームを応援するという、あのパッケージを再現し、1000人入る球場が、最終日には満員になっていました。昨夏、オールスターメンバーに選んだ18人を実際に甲子園へ連れて行った時はポカーンと口を開けて「何だこれは…」とビックリしていましたね(笑)。

 アジア甲子園を、一過性のイベントではなく「文化」にしたいと考えています。現在は3カ国ですが、いずれはアジアの多くの国が参加する大会にしたい。アジア各国を日本の47都道府県のように見立てて、各国の代表がナンバーワンを競う。 「日本の野球人口が減っている」と嘆くのではなく、さらに大きな市場へ「甲子園ブランド」を広げていけば、それが巡り巡って、日本の野球界を支える力になると信じています。

――今、人生の転機に悩んでいる方にメッセージをお願いします。

柴田氏:僕は「夢は語るものじゃない。実行するものだ」と常々思っています。やりたいことを口に出すのは簡単ですが、行動し続けなければ景色は変わりません。チャレンジして、世界が変わるということをこれからも証明していきたいですし、そういう人であり続けたいです。

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