ビスケッティ佐竹氏が逆張り戦略で選んだ「モノマネ」の道は奇跡的な関係を生んだ。
安倍晋三元総理本人から「公認」を得て、婚姻届の保証人まで依頼することに。
突然の喪失を乗り越え、昭恵夫人の後押しで再開した「弔いのモノマネ」に込める想いを聞く。
テクノロジーの進化や市場の多様化が進む現代において、競争の激しいエンターテインメント業界で生き残るには、確固たる戦略と覚悟が不可欠です。吉本興業所属のお笑い芸人・ビスケッティ佐竹(さたけ)氏は、安倍晋三元首相のモノマネでその名を全国に知らしめました。2015年には安倍氏本人から「公認」を得て、一躍、時の人となります。しかし、2022年7月、安倍氏の逝去により、そのキャリアは最大の危機に直面しました。テレビやイベントの仕事は白紙となり、一時は芸人引退すら頭をよぎったと言います。
しかし、佐竹氏が選んだのは「休止」からの「新たな道」でした。数千件に及ぶ「続けてほしい」というファンの声、そして安倍夫人の昭恵さんからの温かい言葉を受け、モノマネのスタイルを根本から見直します。従来の風刺的な笑いではなく、「亡くなった人にまた会いたい」と願う人々に寄り添うスタイルを確立しました。
彼の芸人人生は、戦略的なキャリア選択と、予期せぬ運命の転機によって形作られてきました。埼玉の進学校から路上ミュージシャンを経てお笑い界に入り、強烈な個性がそろう同期の中で、なぜ彼はモノマネという「異端の戦略」を選んだのか。そして、安倍氏の存在を「人生を左右する道しるべ」と語る佐竹氏に、公認から活動休止、そして復活に至るまでの知られざる舞台裏と、競争の激しい世界で生き残るための「異端の戦略」について詳しく伺いました。(内田 勝治=ライター)
異端のキャリアパス…路上ミュージシャンから吉本へ
――現在の活動内容についてお聞かせください。
ビスケッティ佐竹氏(以下、佐竹氏) :吉本のモノマネ芸人として、全国のイベントに出演し、場を盛り上げるというのが主な活動です。加えて、学校で「好きなことを仕事にするというのはどういうことか」といった講演をしたり、吉本が提携している配信プラットフォーム「SHOWROOM」で若手芸人向けに講義をしたりしています。吉本は漫才やコントが中心で、モノマネの文化が比較的弱いんです。だからこそ、自分が道筋をつけ、次の世代にどういったメリットがあるのかを伝えるという役割も担うようになりました。
――お笑いの道を目指したきっかけは何だったのでしょうか?
佐竹氏: 小学校の卒業文集に「将来はお笑い芸人になりたい」と書くぐらいなりたかったんです。ただ、当時はまだインターネットも普及していなくて、芸人になる方法がまったく分かりませんでした。オーディション雑誌を見ても、タレント志望や歌手志望ばかりで、お笑いの情報がなかったんです。
――高校生の頃はストリートミュージシャンだったそうですね。
佐竹氏: 私は埼玉県出身なのですが、ゆずさんや19(ジューク)さんが流行っていた頃で、同級生とコンビを組んで大宮や南越谷、松戸、柏などで歌っていました。小さなインディーズ事務所にスカウトされ、CDも2枚出しました。一緒にやっていた同級生は大学進学組だったので、彼が大学2、3年くらいまでの期間限定で活動しました。路上で歌っている時も、MCや喋っている方がずっと楽しいなと感じていたこともあり、そこで改めてお笑い芸人になろうと決意しました。
――その後、すぐに吉本興業の養成所NSC(吉本総合芸能学院)へ進まれたのですか?
佐竹氏: いえ、最初はフリーの芸人でも出られるアマチュアライブを探して、友達とお笑いコンビを組み、2005年から「ニュースタッフプロダクション」という事務所で活動していました。しかし、2008年末にそのコンビを解散してしまったんです。その時、どうせお笑いをやるなら、自分が通用するかどうか、一番大きな会社に行っておかないと後で後悔すると思ったんです。自分の力が最大手の吉本でどこまで通用するのかを知りたかったというのもあり、2009年にNSCに入りました。
――NSCで学んだことは何ですか?
佐竹氏: 学ぶことは意外と少ないんです。大人数の中で、どうやって目立つか、抜き出るか。そこが重要でした。お笑い芸人になろうとする人は、人と違うことをしたい、目立ちたいと思うんですよ。しかし、巨大な会社の養成所に入ると、全員が同じことをやらされがちです。僕は目立ちたくてこの業界に入ったのに、皆と一緒の動きをしていては目立てるわけがない、と思いました。
当時のNSC東京校は、鬼越トマホークや横澤夏子、おかずクラブら、強烈なキャラクターを持った同期が数多くいました。そこで、普通に漫才やコントをやっていても、彼ら、彼女らにはとうてい勝てません。だからこそ、あえて吉本の中で誰も本気でやっていないモノマネに活路を見出したんです。吉本興業は漫才やコントの世界では最強ですが、モノマネの世界では歴史が浅く、土壌もまだまだ弱かった。モノマネで突き抜けている人はいないから、やっちゃおうという、一種の逆張り戦略でした。芸人になったからといって目立てるわけではない。どうやって他の芸人と違うことを、自分の信念と覚悟で貫いていくのかということが勝負だと思っていました。
安倍氏との奇跡的な関係性と「公認」の重み
――安倍晋三さんのモノマネを始めるきっかけは何だったのですか。
佐竹氏: 安倍さんがまだ小泉純一郎内閣で官房長官をされていた頃です。2005年か2006年頃ですね。山口県出身の友人に「お前に似ている議員さんがいる」と言われたのがきっかけです。当時は芸人を始めたばかりで、色々なモノマネに手を出していた時期だったので、レパートリーに政治家があっても面白いんじゃないかという軽いノリで取り入れました。最初はその友人のアドバイスどおり、顔だけ似せられるという状態で、まだ喋りを似せることはできませんでした。
――安倍さん本人から『公認』を得られた経緯をお聞かせください。
佐竹氏: 2015年、山口県出身者が集まる「長州友の会」に、安倍ご夫妻が出席されると伺いました。吉本からも山口出身の芸人が行くことになったのですが、一枠空いたと聞き、「埼玉出身なのですが行かせていただけませんか」と無理を言って参加させてもらったんです。門前払いも覚悟の上で会場へ向かいました。 ご夫妻がいらっしゃる部屋にご挨拶する機会を運良くいただいたところ、昭恵夫人が「もう似てる!」とすごく喜んでくださったんです。「(安倍さんのモノマネを)今日はやっていただけるんですか?」とも言ってくださったので、初めて本人の前でモノマネを披露しました。ただ、初めてお会いする緊張もあって、いつもより誇張が少なく、あまり似てないモノマネになってしまいました。
司会の方が安倍さんに「いかがでしたか?」と尋ねたところ、「私自身はですね、あまり似ているとは感じなかったんですけども、ただですね、彼がモノマネを続けるためには、私自身が頑張っていかなければならないと感じましたので、皆様どうぞお力添えよろしくお願いします」と、滑った空気を温かい言葉で救ってくださったんです。ここから、僕の活動を応援してくれるという流れができたように思います。本当に温かい方でした。
――2016年リオデジャネイロ五輪閉会式での「安倍マリオ」はキャリアの大きな転機になりましたか。
佐竹氏: 安倍さんが土管からマリオ姿で登場するパロディをその日のうちにやったら、SNSで大バズりしまして、これで東京五輪まで仕事が途切れないだろうという確信が持てました。五輪関連のイベントなどでは、毎回土管から出てくる演出で呼ばれました。吉本興業からも、社長直々のヒアリング(食事会)に呼んでいただき、やりたいことを伝えたところ、すぐに部署をまたいだ仕事の連携が始まりました。2015年の本人公認と2016年のマリオ。この2つが、芸人として食べていけると思えた大きな転機でした。
突然の喪失…キャリアの空白とSNSでの大反響
――2022年7月、安倍さんの逝去を知った時はどのような心境でしたか。
佐竹氏: ショックという一言では言い表せない喪失感でした。何度かお会いしていましたし、昭恵夫人とは特に親しく交流させていただいていたので、どこか親戚のような感覚になっていたんです。本当に親族が亡くなった時と同じような、茫然自失という感じでした。
出演予定だったテレビ、ラジオ、イベントの仕事はすべて中止、延期となりました。吉本とのスケジュール共有に使っているグーグルカレンダーが、開くたびに真っ白になっていくのが本当に怖かったです。ただ、その一方で、私のSNSには「今やらないでどうするんだ」「これからも続けてくれ」という応援メッセージが数千件届きました。そこからTwitter(現X)のフォロワーが4000~5000人、YouTubeの登録者は1万人増えました。これは、安倍さんが亡くなったことでパニックになった国民が、一斉にフォローしてくれたからだと思います。改めて、安倍さんがいかに影響力のある方だったのかを再認識しました。
――引退も一時は考えられたそうですね。
佐竹氏: そうですね。ただ、業界内で「佐竹が仕事なくなってヤバいらしい」という話が広まっていったようで、MCや司会など、安倍さんのモノマネ以外での仕事がたくさん舞い込んできたんです。これが本当にありがたかった。新しい仕事を用意してくれる方々のおかげで、なんとか生きていくことができました。それがなければ、本当に辞めるという判断になっていたかもしれません。
「弔いのモノマネ」後押し…昭恵夫人への尽きぬ感謝
――モノマネの再開は「ご遺族の了承」を条件とされていたのですね。
佐竹氏: 僕の芸人人生は安倍さんのおかげで成り立っていたので、ご遺族にきちんとご挨拶しない限り、モノマネは再開しないと決めていました。昭恵夫人と交流があった方に相談したところ、連絡を取る機会を設けてくださり、ご自宅にお線香をあげにいく許可をいただきました。
――安倍家を訪問された時の昭恵夫人との交流の様子をお聞かせください。
佐竹氏: 当時の安倍家には、海外からも含めて多くの方が弔問に来られている中、僕の枠をしっかりとってくださり、昭恵夫人と一時間弱、ゆっくりとお話しすることができました。安倍さんのお骨が目の前にあるところで、しっかりと線香をあげてご挨拶させていただきました。そこで昭恵夫人から「佐竹君も大変だと思うけど、これからも主人のモノマネを続けてください」という温かい言葉をかけていただいたんです。その言葉で「続けていいんだ」という再認識を得て、復帰を決意しました。
復帰したのは福島県楢葉町の『地域おこし協力隊』です。楢葉町は東日本大震災の際、安倍さんご自身が救援物資を届けに行くなど、思い入れの深かったエリアです。町民の方々にも安倍さんに会ったことがある方が多い。地域おこしを安倍さんのモノマネの復活の場にさせてもらおうと考えました。復活公演では泣き出してしまうおじいちゃんやおばあちゃん、「(安倍さんに)また会えた気がする」と言ってくださる方も多かったですね。この経験で、モノマネの形が完全に変わりました。
――モノマネのスタイルは具体的にどのように変わったのでしょうか?
佐竹氏: 安倍さんが亡くなる以前は、総理の姿を借りてボケたり、時に風刺したりすることもありました。しかし、復帰以降は、安倍さんに会いたかった人たちに寄り添うような「弔いのモノマネ」へと変わっていきました。この変化は、僕自身が望んだというよりも、ファンや被災地の方々に求められて自然と変化していったという側面が強いです。今は、残された人たちの悲しみに寄り添うための表現へと、その役割が大きく変わったと感じています。
実は婚姻届の保証人…今でも続く交流
――佐竹さんにとって、安倍氏、そして昭恵夫人はどのような存在ですか。
佐竹氏: 安倍さんは、芸人としての一つのモノマネのキャラクターという存在を超え、僕の人生を左右する道標になりました。今は求められている限り、安倍さんのモノマネを人生かけてやり続けていくんだなと腑に落ちた部分もあります。
昭恵夫人は、モノマネの復帰を後押ししてくださっただけでなく、実は、私が結婚する際、婚姻届の保証人になってくださった恩人でもあります。現職の総理には無理だと諦めていたところ、昭恵夫人が快く引き受けてくださいました。今でも、安倍さんが使っていたネクタイを送ってくださるなど、交流は続いています。安倍さんが世間から忘れられないように、僕という存在を大切にしてくださっているのかもしれません。
――今後の展望と芸人を目指す後輩たちへのメッセージをお願いします。
佐竹氏: 安倍さんのモノマネは、日本に安倍晋三という総理がいたという事実が世界に伝わる限り、今後もやり続けていくことに意味があると思っています。そしてもう一つの使命は、吉本という巨大組織の中で、僕が切り開いたモノマネという分野を、次の世代に伝えていくことです。吉本のモノマネ文化がどうすれば世の中に受け入れられるのか、どう展開していけば良いのか、というロジカルな戦略を後輩たちに伝えていきたい。芸人になったからといって目立てるわけではありません。芸人になってから、他の芸人と違うことを、自分の信念と覚悟で突き抜けていくのか…。今、教科書通りの漫才をやる人が多い中で、人と被らないことが最も重要な戦略だと思います。