国内最高峰のモータースポーツ「スーパーフォーミュラ」のレーシングチーム運営を筆頭に、レンタルカートサーキット運営、果ては学習塾の展開まで——。異色のキャリアを突き進むBuzz Factory(愛知県名古屋市)代表取締役・長谷川謙一(はせがわ・けんいち)氏の原点は、波乱に満ちた少年時代と、命を懸けたレーサーとしての挫折にあります。
小学1年時、父親が経営する会社が倒産。有刺鉄線で囲まれた自宅を追われ、夜逃げや転校を繰り返す過酷な日々を送りました。そんな暗闇の中で出合ったのが、一冊の雑誌に写るF1レーサーの姿でした。14歳から新聞配達で資金を貯めてカートを購入。睡眠時間を削って700万円を稼ぎ出し、フォーミュラカーの世界へ飛び込みました。しかし28歳の時、レース中に突如、「もうやめろ」という天の声を聞き、ドライバー人生にひっそりと幕を下ろすことになりました。
どん底から建築士資格を独学で取得し、営業マンとして頭角を現した長谷川氏が、再びモータースポーツの世界へ引き戻された理由とは何か。「事業計画書は一度も書いたことがない」「人は必ず死ぬ。だから今に集中する」と言い切る叩き上げ経営者の、泥臭くも研ぎ澄まされた生き様とビジネス哲学に迫ります。(内田勝治=ライター)
サーキット運営から学習塾まで…人間力の「土台」を作る
——まずは、現在の事業内容について教えてください。
長谷川謙一氏(以下、長谷川氏): メインは国内最高峰のモータースポーツ「スーパーフォーミュラ」のレーシングチーム運営です。若手育成カテゴリーも含め、国内のレース活動を幅広く網羅しています。また、事業の柱として、イオンモール常滑内で「シーサイドサーキット」というレンタルカート場を運営しており、子どもから大人まで楽しめる環境を提供しています。さらに、学習塾を2店舗運営しています。
——モータースポーツと学習塾というのは意外な組み合わせに見えますが、どのような経緯で始められたのでしょうか?
長谷川氏: うちのカートスクールにはプロを目指す子どもたちが多く通っています。ただ、スポーツの世界に打ち込む子どもや親御さんにありがちなのが、「レースをやっているから勉強はしなくていい」という考え方です。しかし、世界に目を向けると、F1に乗るようなトップドライバーたちは例外なく学力や教養が非常に高い。極限の状態で車をコントロールしながら、マシンの状態を言語化してエンジニアに伝え、チーム全員でいい車を作り上げる必要があるためです。地頭の良さや客観視する能力、そして語学力が絶対に求められます。
もう一つ、勉強の本質は「テストで点数を取ること」だけではないと思っています。大人になれば計算なんて電卓を使えばいい。大事なのは、目の前の課題から逃げずにやり切る「粘り強さ」や「土台となる人間力」を養うことです。将来、何か本気で叶えたい夢が見つかったとき、それを支える土台を作るために勉強がある。そうした力を身につけてほしくて学習塾を立ち上げました。
——長谷川社長ご自身の幼少期について伺いたいのですが、かなり壮絶な環境でお育ちになったそうですね。
長谷川氏: 名古屋の一等地で生まれたのですが、小学1年のときに父の貿易会社が倒産して、家族の運命は一変しました。ある日学校から帰ると、自宅が有刺鉄線で囲まれ、30人ほどの大人が群がっていたんです。お気に入りのおもちゃも取れず、そのまま車に乗せられて逃げるように家を出ました。その夜、怪しげな建物の階段を上り、ドアを開けると、回転する丸いベッドとミラーボールがあった。今思えば、そこはラブホテルでした。家族4人でそこに身を寄せた記憶があります。
それからは闇金や借金取りに追われる日々を過ごしました。友達に別れを告げる間もなく転校を繰り返し、小1から小4までの記憶はショックでほとんど抜け落ちています。鮮明に覚えているのは、小6の4月29日です。私は当時野球をやっていたのですが、突然父から「キャッチボールをしよう」と誘われ、30分ほどボールを投げ合った後に「じゃあな」と言われました。それが父を見た最後です。両親が離婚したことで追われる生活からは解放されましたが、母は苦労しながら僕と弟を育ててくれました。本当に母には感謝しかありません。
過酷な少年時代に差した一筋の光明…アイルトン・セナに心奪われた
——そうした過酷な環境の中で、モータースポーツとはどのように出合ったのでしょうか。
長谷川氏: 中学2年のときです。野球の本を買うために本屋へ行ったところ、いつもなら左側の棚を見るのに、その日はたまたま右側の棚に目がいったんです。そこに置いてあったのが、モータースポーツ専門誌の『オートスポーツ』でした。表紙には、レモンイエローのヘルメットを被ったアイルトン・セナが写っていました。彼の姿を見た瞬間、全身に鳥肌が立ちました。「かっこいい! レーサーになりたい!」と、一瞬で心を奪われたんです。
——しかし、モータースポーツはお金がかかる世界です。中学生が足を踏み入れるにはハードルが高すぎたのではないですか?
長谷川氏: 当然、家庭にそんな余裕はありません。ただ、雑誌を読み込むと、「12歳からカートライセンスが取れる」と書いてあったんです。そこで、名古屋のプロショップを探して自転車で走り込み、「どうしたら乗れますか?」と聞きに行きました。店主から「カートを買わなきゃダメだ。40万円かかるから親を連れてきなさい」と言われましたが、親に言えるはずもないし、その時は400円しか持っていませんでした(笑)。
でも、諦められなかった。それから朝の新聞配達を始めました。2年間、毎朝起きて新聞を配り続け、16歳のときにようやく自分の力で40万円のカートを手に入れました。不安と期待が入り交じる中で手に入れたあの瞬間の感覚は、今でも忘れられません。
——高校卒業後、さらに本格的なフォーミュラカー(FJ1600)の世界へステップアップしていかれましたが、資金作りはどのようにされたのですか?
長谷川氏: FJ1600に参戦するには、初年度だけで800万円は必要だと言われました。母は大学進学を望んでいて合格もしていたのですが、それを蹴って現場仕事に就きました。朝8時から夕方5時までは鉄筋工として日当を稼ぎ、夜10時から朝6時まではコンビニでバイトをしました。そんなほぼ寝ずの生活を1年半ほど続け、私を大学に行かせるために必死で貯めた母の貯金を頼み込んで助けてもらいながら約700万円を貯め、マシンを購入してレースに挑みました。
ただ、体力的には限界で、レース直前のピットロードで出走を待っている間に居眠りしてしまうほどでした(笑)。そんなとき、先輩たちのマシンに企業のステッカーが貼ってあるのを見て「スポンサーを集めればいいんだ」と気づいたんです。自分でワープロを叩いてプロフィールを作り、カラーコピーして100部持って、アポなしで飛び込み営業をかけました。当然最初は相手にされませんでしたが、紹介をたどり、名古屋の企業が第1号スポンサーになってくれました。自分の手で道を拓いていく面白さを知った瞬間でした。
憧れのレーサーとして12年間活動も28歳で引退「虚無感に襲われた」
——20代後半、プロの「GTクラス」への参戦チャンスが巡ってきたそうですね。
長谷川氏: GTのチームからテストの機会をいただきました。予選で2番手につき、決勝で走りが認められればプロへの道が開けるという、人生最大の勝負どころでした。ところが、気合いが空回りして1コーナーでトップを奪おうと焦り、スピンしてしまった。千載一遇のチャンスを自ら潰してしまったんです。自分には土壇場で勝負を決めきるセンスや才能が足りないのではないか、と突きつけられた出来事でした。
——そして28歳でレーサーとしての引退を迎えます。どのような潮時だったのでしょうか?
長谷川氏: 2000年、山口県のサーキットでレースを走っていた時のことです。ヘアピンコーナーを曲がった瞬間、頭の中でハッキリと「もうやめろ」という声が聞こえたんです。誰も喋っていないのに、急に自分の内側から「もうやめろ、お前には無理だ」と。極限の精神状態だったのだと思います。周回を重ねるごとに涙が溢れ出して止まらなくなり、「ああ、俺のドライバー人生はここで終わりなんだ」と悟りました。16歳から12年間、命と人生を懸けて走ってきましたが、ひっそりとヘルメットを置く決断をしました。
——そこからどう次のキャリアへ進まれたのですか?
長谷川氏: 1年ほどは虚無感に襲われ、どん底のニート状態でした。ただ、僕の根底には楽観的な性格があって、落ち込みきったら今度はいろんな意欲が湧いてきたんです。過去にレース現場や海外で見た建造物に魅力を感じていたことを思い出し、建築士の資格を取って建築の仕事をやってみようと考えました。
通常、大学の建築学科を出ていないと実務経験が7年以上必要ですが、僕は10代の頃に鉄筋工として現場で働いていた経験がありました。受験資格を満たしていると知り、1日8時間、猛勉強しました。合格率十数%の2級建築士試験に一発合格したんです。「本気でやればできる」という大きな自信になりました。
その後、自由設計の住宅工務店に飛び込み営業として採用され、住宅営業の道へ進みました。かつて自分のレーサー活動のためにスポンサーを集めていた経験に比べれば、家を売ることなんてさほど難しいことではありませんでした。その後、不動産会社へ転職し、商業施設の誘致や事業用地の提案といった「街づくり」を手がけ、大きな成果を上げることができました。
サラリーマンの安定した地位を捨て再び戻ったモータースポーツの世界
——サラリーマンとして順風満帆だったのに、なぜ再びモータースポーツの世界に戻られたのでしょうか。
長谷川氏: 2005年、32歳の時です。友人から「近くにレンタルカート場ができたから行こう」と誘われたのがきっかけでした。当時はレース界から完全に離れていたのですが、久々に足を踏み入れて驚きました。僕らの時代は12歳から取得可能だったライセンスが、時代が変わって4歳から取れるようになっていました。
ただ、サーキットを見ると、モータースポーツ経験のない親御さんたちが、子どもに間違った走り方を教えていたんです。「この大事な時期に、そんな教え方をしたら宝物が台無しになる!」と熱くなってしまって(笑)。見かねて「お父さん、ちょっとこうしてみなよ」とアドバイスしたら、その子が劇的に速くなったんです。
「自分には長年培った知識と技術がある。この子どもたちに本物を教えたい」と胸の奥の火がつきました。週末を利用して講師を始めると、口コミで一気に子どもが集まり、30人規模になったんです。「片手間でやるのは失礼だ」と会社を辞め、創業資金30万円で独立しました。
既に結婚もしていて子どももいましたから、普通なら家族は大反対です。でも妻は「やれるならやってみたら?」と言ってくれました。ただ、独立してすぐに「来月のお給料が自動で振り込まれない」という現実に直面して震えました(笑)。必死で駆け回り、2009年に株式会社化し、2013年には念願の本格的なレーシングチームを立ち上げました
——新型コロナウイルス禍をはじめ、幾度も経営の危機があったと伺いました。
長谷川氏: コロナ禍の時は全レースがストップし、壊滅的でした。会社を存続させるためにフルで融資を受けつつ、知人が展開していた大福店のフランチャイズをゲリラ的に立ち上げました。2年間店舗を運営して利益を出し、会社を繋ぎ止めた上で売却しました。また、資金が厳しかった時期には、社員の給料を払うために夜間にトラックに乗って稼いだこともあります。泥臭いことなら何でもやってきました。
——2006年に創業された際、まだ言葉として一般的ではなかった「Buzz(バズ)」という名を冠されていますね。どのような想いがあったのですか。
長谷川氏: 当時ヨーロッパで「口コミで爆発的に広がっていく」ことを「バズ・マーケティング」と呼んでいて、「自分たちの熱量を世界へ勢いよく発信していこう」という思いを込めました。最近でこそ「バズる」なんて言葉が溢れていますが、弟の発案でもあり、うちは20年も前から使っていますからね(笑)。
もともとの社名は「Buzz International(バズ・インターナショナル)」でした。数年後、社員に言われて画数を調べたら大凶。負の要素はすぐ取り払おうと、その場のノリで「じゃあ『Buzz Factory(バズ・ファクトリー)』だ!」と変えました。安易な発想ですが、これが真実です。
スーパーフォーミュラをバスケのBリーグのような憧れのプロスポーツへ
——そうして生まれたBuzz Factoryですが、今後の10年、20年に向けてどのようなレガシーを残していきたいですか。
長谷川氏: 国内でレンタルカートから最高峰のスーパーフォーミュラまで一貫して手がけているチームは、うちしかありません。私がこうして今、本当に好きなことで生きているのは奇跡だと思っています。今私のそばにいてくれて支えていただけている多くに皆様に感謝しながら、この規模をもっと世界へ広げていくこと。そして、スーパーフォーミュラという素晴らしいプロスポーツを、バスケットボールのBリーグのように子どもたちが憧れる本当のプロスポーツへと押し上げることです。うちのチームがその先頭に立ちたいと考えています。
——これまで壮絶な人生を歩まれてきましたが、振り返ってみて人生の転機といえるタイミングはいつだったのでしょうか。
長谷川氏: 間違いなく2006年、あのレンタルカート場に立ち寄った瞬間です。一度はレースの世界から完全に足を洗い、サラリーマンとして生きていくと決めていました。もしあの日、友人とあの場所に立ち寄っていなければ、今の僕は100%存在していません。人の縁と引き寄せの恐ろしさを感じます。
——最後に、これから自分の人生を切り拓こうとしている若い世代や、壁にぶつかっている人へメッセージをお願いします。
長谷川氏: 僕が一番伝えたいのは、「人は必ず死ぬ」ということ。そして「それがいつ訪れるかは誰にも分からない」ということです。だからこそ、過剰に未来を恐れる必要もないし、過去を悔やむ時間ももったいない。ご先祖様に感謝しつつ、限られた時間の中で「今」に集中して、本当に好きなことをやるべきです。
ビジネスにおいて特別な才能は不要です。私は銀行から融資を受けるための事業計画書を一度も書いたことがありません。何とかなるものだし、難しく考えている人が多いなという印象です。必要なのは「強烈にイメージする力」と「それを実現させるための情熱」だけです。脳裏にリアルな完成形を描き、今この瞬間に全力を注いでいれば、世の中は必ず動くし、人生には必ずいいことが起こる。僕はそう確信しています。