2024年のパリパラリンピックで悲願の金メダルを勝ち取った車いすラグビー日本代表。その中心選手の一人として、コートを縦横無尽に駆け抜けたのが中町俊耶(なかまち・しゅんや)氏です。

中町氏はかつて、甲子園を夢見て白球を追う左腕投手でした。人生を一変させる不慮の事故が起きたのは大学1年生の秋。医師から告げられたのは、脊髄損傷による四肢麻痺でした。肩から下の自由を失うという、あまりにも過酷な現実。絶望の淵に立たされてもおかしくない状況下で、彼はなぜ再び前を向き、「一歩踏み出す勇気」を持つことができたのでしょうか。

かつての野球少年は、車いす同士の激しい衝突に魅了され、世界の頂点を極めるまでの軌跡には、一人の恩師との出会いと、「できないこと」ではなく「できること」に目を向ける強靭なメンタリティがありました。パリでの激闘を終え、2028年のロサンゼルスパラリンピックを見据える中町氏の静かなる情熱と、「変化力」の物語を紐解きます。(内田 勝治=ライター)

野球少年を襲った不慮の事故…脊髄損傷で四肢麻痺

――幼少の頃のお話を聞かせてください。

中町俊耶氏(以下、中町氏):5歳上の兄と4歳上の姉がいる末っ子で、常に兄の背中を追いかけて外で遊んでいるような子どもでした。野球を始めたのは小学1年生の時です。兄が野球をやっている姿がとにかくカッコよく見えて、「自分もあの中に入りたい」と思ったのがきっかけでした。それから大学1年生でケガをするまで、生活の中心には常に野球がありました。

 小学生の頃は本気でプロ野球選手に憧れていました。巨人の上原浩治さんや松井秀喜さんに夢中でしたね。自分は左投げだったので、ピッチャーやファーストを任されることが多かったです。ただ、中学生に上がり、部活動ではなく地元のクラブチームに入ると、集まってきている子たちのレベルがあまりにも高い。「プロは無理かもしれない」とレベルの差を痛感した時期もありました。それでも「野球が好きだから続けよう」という一心で、大学まで競技を続けてきました。

――その野球人生が突然の事故で断たれてしまったのですね。

中町氏:大学1年の秋、同級生と室内練習場で相撲をやっている時でした。相手の脇に頭を入れた状態で脚を払ったら、きれいに相手が尻餅をつく形になり、そのまま僕の頭が下に引っ張り込まれて地面に叩きつけられて首の骨が折れました。

 倒れた瞬間、視界がザーッと砂嵐のように流れて、自分がどういう体勢でどこを見ているのか、全く分からなくなりました。練習場の天井を見上げながら「いつものように起き上がろう」と思ったのに、体のどこにも力の入れ方がわからない。「あれ、おかしいな」と。首の骨を折ると体が動かなくなるという知識がかすかにあったので、不思議と冷静に「あ、首の骨が折れたかもしれない」と直感しました。

――その後の診断結果を聞いた際のショックは相当なものだったのでは?

中町氏:実は、それほど落ち込まなかったんです。もちろん、徐々に呼吸が苦しくなってきて、「これはまずい」という感覚はありましたが、搬送先の病院で診断を聞いた時も「ああ、やっぱりか」という感じでした。

 何より、母からは以前から「危ない遊びはやめなさい」ときつく言われていたんです。それを軽く受け止めて取り返しのつかないケガをした。だから、これは自分の責任だという思いが一番にありました。大学側にも多大な迷惑をかけてしまったという申し訳なさが先に立ち、自分の境遇を嘆く余裕がなかったのかもしれません。元々楽天的な性格だったのも幸いしたのだと思います。

絶望のリハビリ期を経て出合った車いすラグビー

 最初の3カ月間はずっと寝たきりでした。首の神経を損傷すると、血圧をコントロールする機能などの自律神経も一緒にやられてしまうんです。だから、まずはベッドの角度を5度ずつ上げることからリハビリが始まります。たったそれだけで、急激な低血圧に襲われて頭がフラフラになり、吐き気がする。ベッドを少し起こすだけで普通の人が立ち上がった時に感じる「立ちくらみ」の何十倍もきつい状態に陥るんです。

 5度が10度になり、20度になり…。時間をかけて体を起こせるようになり、ようやく車いすに座る練習になり、その次は自分で車いすをこぐ練習。最終的に床から自分の腕の力だけで車いすに這い上がれるようになるまで、数カ月かけて訓練を重ねました。

 僕の場合は神経が完全に切れてしまっている、いわゆる「完全麻痺」です。人によってはリハビリで感覚が戻る「不全麻痺」の方もいますが、僕は全く変わらなかった。それでも、母から「あなたが不注意でケガをして大学に迷惑をかけたんだから、せめて卒業まではやり通しなさい」と言われていたので、復学することだけを目標に前を向いていました。

――そんな入院生活の中で、どうやって車いすラグビーと出合われたのですか?

中町氏:リハビリも終盤に差し掛かった頃、ベッドでゴロゴロしていた僕のところに、一人の男性が車いすでスーッと寄ってきたんです。僕より1年前にケガをされて、すでに退院してリハビリをしている方でした。その人が僕の前まで来て、いきなり「ベッドから降りろよ」みたいな感じで、入院している若い人たちが談話室のようなところへ集められました。喋っているうちに同じ年だと分かり、障害も似ている部分があったので「一緒にラグビーをやろう」と誘われました。

 僕は野球という勝負の世界にいたからこそ、スポーツをすることの大変さも理解していたつもりです。障害を負ってまでスポーツはやりたくないと断り続けていたのですが、会うたびに熱心に誘ってきて、最後は「やらなくていいから見に来るだけでいい」と言われ、その気持ちに負けて入院先の近くの体育館へ見に行ったのが全ての始まりでした。

障害者ではなく一人の「アスリート」として扱われる喜び

――初めて見た車いすラグビーの印象はどうでしたか?

中町氏:言葉を失いました。僕と同じように体幹も効かない、指も動かないような重い障害を持つ人たちが、信じられないスピードで走り、激突してひっくり返っている。その迫力もすごかったのですが、何より僕の心を動かしたのは、コートサイドの光景でした。

 選手が激しく転倒した時、それを見ている健常者のスタッフや観客が、心配するどころか「ナイスプレー!」と笑い合っていたんです。車いす生活になると、家族も友達も必要以上に優しくしてくれます。親切心なのですが、何でも先回りして助けられてしまうことが、時として「一人の人間」として扱われていないと感じる瞬間もありました。

 でも、ラグビーのコートの中には、そんな同情や過度な配慮は一切なく、一人ひとりを尊重しているという感覚が、当時の僕にはものすごく輝いて見えたんです。あんなに頑なに断っていたのに、見た瞬間に「やりたいです」と口にしていました。

――野球とは全く異なる「コンタクト(接触)」の激しさに抵抗はなかったですか?

中町氏:普段の生活で車いすをぶつけるのは、絶対にやってはいけない「事故」ですよね。でもコートの中では、それがルールとして許容され、むしろ賞賛される。その非日常的な刺激が、僕にとっては最高に新鮮で、失った情熱が再び燃え上がるのを感じました。

「お前がエースだ」恩師の指導でパフォーマンスが向上

――車いすラグビーには障害の度合いによる「持ち点制」があります。中町さんの役割について教えてください。

中町氏:障害の一番重い人が0.5点、軽い人が3.5点で、コート上の4人の合計を8.0点以内に収めるルールです。僕は2.0点で、ちょうど中間くらいの「ミッドポインター」と呼ばれる役割です。

 野球をやっていて良かったと思うのは、視野の広さや空間把握能力ですね。ラグビーもパスをもらう時にどこでバウンドして、どこに落ちてくるか、体が勝手に反応してくれます。また、視野の下の方で相手がぶつかりに来ているのを察知しながら、ボールを扱う。こうした感覚は野球時代の経験が生きているなと感じます。

――競技開始当初から日本代表を意識していたのでしょうか?

中町氏:いえ、最初は「パラリンピックなんてとうてい無理だ」と思っていました。代表選手たちは僕より障害が重いのに、僕よりはるかに速い。体力も技術もけた違いで、絶望的な差を感じていたんです。ただ、毎回の練習が純粋に楽しくて、まずは続けてみようという一心でした。

 転機は競技を始めて2年目、拠点を埼玉のチームから、東北に新しくできた「TOHOKU STORMERS」というチームへ移したことでした。そこで出会ったのが、後にコーチとして僕を導いてくれる三阪洋行さん(2016年リオデジャネイロパラリンピック日本代表銅メダル時のアシスタントコーチ)でした。

 今の自分があるのは、間違いなく三阪さんのおかげです。コミュニケーションを大切にした指導で、僕がプレーするたびに「今のプレーは何が良かった? 何が悪かった?」と問いかけ、僕自身の言葉で説明させるんです。感覚だけで動いていた僕は最初、何も答えられませんでした。

 でも、一つひとつのプレーを言語化していくうちに、車いすラグビーという競技の深い戦略性が見えてきたんです。「あの時、こう考えていたからこの動きをした」と説明できるようになると、自然と理解が深まり、パフォーマンスが飛躍的に向上しました。

 忘れられない言葉があります。ある試合の後半、体力的にボロボロで心が折れそうになっていた時、三阪さんが真後ろから寄ってきて、「お前がエースだ。お前が頑張らなきゃ勝てないぞ」と声をかけてくれた。あの瞬間、背筋が伸びたというか、自分がやるべき役割を再認識させられました。

パリで掴んだ悲願の金メダル…「自分たちは壁を超えたんだ」

――2021年東京パラリンピックでは銅メダル。そして2024年パリでは、ついに悲願の金メダルを獲得しました。この3年間でチームはどう変わったのでしょうか?

中町氏:東京パラリンピックの時はスピードやパワーで海外に引けを取らない自信がありましたが、プレッシャーがかかった時に基礎的なミスが出て崩れてしまう弱さがありました。そこからパリまでの3年間は、とにかく地味な基礎練習を徹底しました。正直「こんなことまでやらなきゃいけないのか」という雰囲気の時もありましたが、全員で信じて練習を重ねました。

 その結果、パリではベンチ入りした12人、誰が出ても戦力が落ちない最強の布陣が出来上がりました。一人のスターに頼るのではなく、全員で繋ぐラグビーが完成したんです。

――パリパラリンピックで最も印象に残っている場面を教えてください。

中町氏:準決勝のオーストラリア戦ですね。日本にとって準決勝は、過去何度も跳ね返されてきた「最大の壁」でした。試合も最終ピリオドの残り2、3分までずっと負けていて、ベンチには「また今回も準決勝で負けちゃうのか…」という諦めが漂いかけていました。

 でも、コートに立っていた4人は全く諦めていなかった。土壇場で追いつき、延長戦で勝ちきった瞬間、まだ決勝が残っているのに全員が泣いていました。あの1勝で「自分たちは壁を超えたんだ」という自信が生まれました。その勢いがあったからこそ、決勝の米国戦は楽しく気負わずにやろうと自分たちのラグビーに集中できて、金メダルをつかみ取ることができたのだと思います。

障害の重い選手が体を張ってチームを支えている姿に注目

――車いすラグビーをより多くの人に知ってもらうために、中町さんが伝えたい「見どころ」はありますか。

中町氏:パッと見ただけでは、選手のどこに障害があるか分からないかもしれません。でも、実は肘の曲げ伸ばしすらできない選手もいれば、指が全く動かない選手もいます。そんな選手たちが、専用の車いすを操り、陰では相手の進路を塞いで道を作っている。派手なトライを決める選手だけでなく、障害の重い選手たちが体を張って支えている姿に注目してもらえると、この競技の本当の面白さが伝わると思います。

――最後に、今、困難に直面して悩んでいる人たちへメッセージをお願いします。

中町氏:僕が大切にしているのは「一歩踏み出す勇気」です。その時は小さな一歩に感じるかもしれませんが、後から振り返った時、それが人生を大きく変えるターニングポイントになっています。

 僕自身、ケガをした後は何もしたくなかったし、車いすラグビーを誘われた時も最初は逃げていました。でも、あの日、勇気を出して体育館へ行ったから、金メダルを首に下げている今の自分があります。苦しい時、一歩を踏み出すのがどれほど大変かは、僕も痛いほど分かります。でも、そこで踏み出せば、想像もしていなかった新しい自分、新しい景色に出会えるチャンスが必ず訪れます。自分の可能性を信じて、ぜひ最初の一歩を踏み出してみてください。

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