消去法で選んだはずのハンドボールで日本代表主将に上り詰めた東俊介氏。
バスケ界や卓球界で経験を積みながら抱く夢。
「ハンドボールに関わってよかった」と思える世界を目指して走り続ける。

「自分はもともと運動音痴で、一番楽そうだったからハンドボール部を選んだのが始まりです」。そう笑って語る東俊介氏は、191センチの恵まれた体躯を武器に、実業団の大崎電気で9度の日本一を経験。日本代表の主将としても活躍するなど、華々しいキャリアを歩んできました。

ただ、その視線は常に「コートの外」に向けられてきました。現役引退後は早稲田大学大学院でスポーツマネジメントを学んだのち、日本ハンドボールリーグ機構のマーケティング部初代部長、そして女子強豪・北國銀行の監督として、経営と現場の最前線を渡り歩いてきました。

現在はハンドボールの枠を超え、バスケットボールBリーグの「金沢サムライズ」をビジネス面で支え、卓球Tリーグ球団の社外取締役としても辣腕を振っています。ただ、東氏が目指すのは、人生を変えてもらったハンドボールという競技への、一生をかけた恩返しです。将来の協会会長就任を見据え、座右の銘である「道険笑歩(どうけんしょうほ)」を体現し続ける男の情熱の源泉に迫りました。(内田 勝治=ライター)

文化系の170センチが「モテたい」一心で選んだ道

――東さんは現在、ハンドボール界のみならず日本のスポーツビジネス界でも注目の存在ですが、その原点は意外にも「消去法」だったそうですね。

東俊介氏(以下、東氏):よく「スポーツエリートだったんでしょう?」と言われるのですが、とんでもありません。小学校6年生で身長は170センチありましたが、運動音痴で、絵を描いたり本を読んだりする方が得意でした。

 ただ、私が進んだ中学は、何か部活動に入っていないといけないルールがありました。文化部に入ろうかなとも考えたのですが、「こんなに身長があるのに何もスポーツをしていなかったら、女の子にモテないんじゃないか」と思いまして(笑)当時の部活の中で一番楽そうに見えたのがハンドボールだったんです。ドッジボールのような少し大きめのボールを投げたり取ったりすることだけは唯一得意だったので、「これなら自分にもできるかな」という軽い気持ちで始めました。

――「楽そう」という理由で始めた部活が、なぜ人生のすべてになったのでしょうか?

東氏:中学のハンドボール部は、他の部活動を辞めてきた人たちが集まるような場所でした。練習は週に1、2回で、先輩も来たり来なかったり。そこで、1年生大会に出場して活躍して準優勝したんです。スポーツで初めて人から褒められるという経験をしました。それが嬉しくて、ハンドボールにはまっていきました。

 中学3年時には身長も183センチまで伸びていて、地元・石川県で一番の強豪校である金沢市立工業高の酒井信幸先生からスカウトされ、本格的な競技が始まりました。先生は、練習のあまりのしんどさに、入学前に退部すると言った私を厳しく、温かく、そして粘り強く指導してくださいました。

 「納得のいくプレーをしなさい」とずっと言われていて、一つひとつの成功や失敗に一喜一憂せずに、しっかりと考えさせてくれる環境で大切に育てられました。先生と出会ったことで、人生が大きく変わりました。高校日本代表にも選ばれたことで、将来的には日本代表の一員として五輪や世界大会で活躍したいという夢を持つことができました。

挑発に乗って選んだ弱小チーム…「日本一にしてやる」という意地

――その後、国際武道大学を経て、実業団の大崎電気に入団されました。

東氏:実は大学卒業時、当時日本で一番強かった中村荷役からスカウトをいただいていました。私としても嬉しくて、九分九厘そちらでお世話になろうと決めていました。選手としてはそちらに行くのが正解だったのかもしれません。ただ、大崎電気のコーチで、ソウル五輪にも出場された山本興道さんから誘いを受け、「強いチームに行けば、お前がいなくても勝つ。お前の力とは関係ないところで日本一にさせてもらえばいい」と煽られたんです(笑)。私はその言葉にカチンときて、「だったら俺がそっちにいって、弱いチームを日本一にしてやりますよ」と、挑発に乗る形で大崎電気に行くことを決めました。実は中村荷役は翌年に廃部になるので、もしそちらを選んでいれば、今とは違う道を進んでいたかもしれません。

 ただ、大崎電気に入ってみたら、私はチームの中で圧倒的に下手でした。練習についていけず、フットワークの練習でもついていくのがやっと。筋肉痛の影響で、後ろ歩きじゃないと階段を上がれないような毎日でした。大崎電気はその当時、下部リーグとの入れ替え戦に出るような弱小チームでしたが、それでも「日本一にする」と言ってしまった手前、後に引けません。ただ、そんなに練習しているのに、リーグ戦では年間1勝か2勝しかできない。「どうしてこんなに苦しいのに勝てないんだ」と、暗闇の中にいるような感覚でした。

――その停滞していたチームがなぜ急激に強くなったのですか?

東氏:2000年に三陽商会のハンドボール部が休部したことが大きな転換点になりました。そこから岩本真典さんや中川善雄さん、永島英明さんといった日本代表クラスの選手たちが移籍してきたんです。彼らの「意識」は、それまでの私たちとは次元が違いました。

 ウォーミングアップのサッカーですら本気で勝ちにこだわるんです。ときには掴み合いの喧嘩もしていたほどです(笑)。最初は戸惑ったところもありましたが、私たちの意識も「勝負には絶対に勝つんだ」という風に変わっていきました。その後、宮﨑大輔くんが入団し、チームは一気に日本一の常連へと駆け上がりました。

苦しめられた「中東の笛」…現役選手が応援団長を買って出た理由

――2003年にはフル代表に初選出されますが、2005年の世界選手権直前での落選という大きな挫折を経験されていますね。

東氏:あれは人生最大のショックでした。世界選手権に出ることは高校生の頃からの夢でしたから。ただ、直前のパリ合宿で松井幸嗣監督(当時)に呼び出され、落選を宣告されました。ホテルの部屋に戻り、同室だった先輩に報告したとき、私以上に泣いてくれたんです。

 その涙を見た瞬間、不思議と自分の悔しさが消えました。「今の自分にできる最後の仕事は、これから戦いに行く仲間を気持ちよく送り出すことだ」と。監督からは「メンバー発表の場に来なくていい」と言われましたが、私は「行かせてください」と志願しました。発表の場で、「自分は日本に帰るけれど、みんなは世界で戦ってきてほしい。応援している」と伝えました。この行動を監督が評価してくださり、翌年、再び代表に呼ばれてキャプテンに指名されました。

――その後、2007年の北京五輪予選では「応援団長」という前代未聞の役割を担いました。その真意はどこにあったのでしょうか。

東氏:当時は「中東の笛」※と呼ばれる不当と思われるジャッジが、日本の世界への道を遠ざけていました。私自身、審判に理不尽な判定で負かされた経験があり、心が折れかけていました。「ハンドボールをいくら頑張っても、お金で買収されたら意味がないじゃないか」と。

 でも、愛知県で開催される北京五輪予選を前に考えたんです。コートの選手が抗議すれば退場になるし、協会の人が言えば国際問題になる。だったら「スタンド」が戦うしかない。サッカーでは欧州のサポーターが審判にプレッシャーをかけるように、日本のファンが「アンフェアな判定をしたらただじゃおかない」という空気を作る。当時、ハンドボール界には代表の応援団なんてありませんでしたが、ないなら自分が作ればいい。各チームの応援団に声をかけ、現役選手でありながら団長としてスタンドに立ちました。この時、私は「自分はプレー以外でもハンドボールを変えられる」と確信したんです。

※アジアでのハンドボールの試合が、中東圏の国に有利に運営され、審判の不可解な判定が下されること

早稲田大学大学院で学び直し…優秀論文賞を受賞

――2009年に現役を引退され、そこからはビジネスの世界へ舵を切られます。早稲田大学大学院での学びはどのようなものでしたか。

東氏:引退してすぐコーチになる道もありましたが、私は「強くても競技がメジャーにならない構造」を変えたかった。平田竹男教授のもと、桑田真澄さん(元プロ野球選手)や江口晃生さん(ボートレーサー)、中山泰秀さん(衆議院議員)といった、異業種のトップランナーたちと机を並べました。

 平田先生は「お互いがお互いの先生だ」と仰いました。プロ野球球団のマーケティング担当や、外資系スポーツメーカーのマーケティング部長、コカ・コーラで五輪の運営に関わった方々が語るビジネスの裏側は、私の知らないことばかりでした。

 私はそこで「トリプルミッション(勝利・普及・資金)」という概念を学びました。どれか一つが欠けてもスポーツは成立しない。私の修士論文は、古巣の大崎電気のトリプルミッションの状態がどうなのか、これを好循環させるためにはどのようなことが必要なのかを現状把握をして対策を立案する感じで書かせていただき、優秀論文賞をいただきました。ただ、問題点も結構書かざるを得ないわけで、現場の人間からは「自分たちを批判された」と捉えられ、チームから離れることになってしまいました。

――その後、大崎電気の一般社員として過ごした2年間はいかがでしたか?

東氏:昨日まで「日本代表の東さん」とちやほやされていたのが、今日からは「仕事のできないおじさん」扱いです。営業でもない事務職の私は、何の数字も出せない。周りからは「あいつは干されたんだ」という目で見られる。でも、そこでもう一度、現役時代の「下手くそだった自分」を思い出したんです。

 「できないなら、できるようになるまでやるしかない」。私はISO(国際標準規格)の品質と環境の審査員資格を猛勉強して取得し、トヨタのムダ取り方式※の外部研修に半年ぐらい通い、そこでMVPを獲りました。結果を出すことで、会社からも「こいつはハンドボールだけじゃない」と認められ、副課長に昇進しました。スポーツの世界だけでなく、一般社会のルールで戦って勝った経験が、私のマネジメントの土台になっています。

※トヨタ生産方式(TPS)の中核をなす考え方で、製造工程における付加価値を生まない「7つのムダ」を徹底的に排除し、生産効率と品質の向上、コスト削減を目指す手法

「ダメなのは自分だ」40歳での退職とバスケ界への転身

――2012年4月よりハンドボールリーグ機構・総務規律ならびに広報委員に就任。翌年はマーケティング部新設に尽力し、初代部長に就任されました。

東氏:「プロリーグ化」という悲願に向けて40周年記念プロジェクトを立ち上げ、邁進しました。でも、組織の壁は厚かった。「50周年に向けてゆっくりやろう」という先送りの決断が下されたんです。当時の私は「これだからマイナー競技のままなんだ」と毎日愚痴をこぼしていました。

 でもある日、「ダメなのはハンドボール界じゃなくて、自分の方だ」と。私に孫正義さん(ソフトバンクグループ会長兼社長)のような資金力や影響力があれば、一瞬で変えることができるんです。自分にその力がないから、周りを説得することができません。だったら、組織にぶら下がるのをやめて、自分で力をつけるしかない。そう決意して、40歳で大崎電気を退職して、講演活動やテーピングの販売代理店などで生計を立てました。今考えると恐ろしいですよね(笑)。家を買ったばかりで、子供もまだ小さい。それでも「ここで動かなければ後悔する」という確信がありました。

――その後、2023年に北國銀行の監督に就任。初めて現場の指揮を任され、意識したことはありますか?

東氏:北國銀行は私が監督になる前までリーグ9連覇を達成するなど、強いチームでしたが、それでも観客が集まらない。周囲はある意味勝ちに慣れてしまい、価値が低い状況になっていました。

 監督業をやってみて、改めて「現場」の大切さと難しさを知りました。でも、同時に「現場がいくら頑張っても、リーグのプラットフォームが古ければ、彼女たちの努力は最大限に評価されない」という、かつての危機感を再認識することにもなったんです。

――現在は、ハンドボールの現場を離れ、石川県金沢市のプロバスケットボールチーム「金沢サムライズ」のパートナー事業部部長として活躍されています。なぜ今、バスケなのですか?

東氏:答えはシンプルです。「ハンドボールよりも先を走っているスポーツの仕組みを、内側から学ぶため」です。バスケットボール界は今、Bリーグを中心に劇的な変革を遂げ、ビジネスとして完全に成立しつつあります。でも、金沢サムライズはまだB3リーグ(3部)。過去の債務超過や震災による影響から経営難も経験しました。この「苦境にあるチーム」をビジネスとして再生させることは、まさに将来のハンドボール界のプロ化を成功させるための最強のシミュレーションなんです。

 私は今、石川県内の企業や行政を回り、パートナーシップを構築しています。ハンドボールで培った「泥臭さ」と、大学院で学んだ「体系的なビジネススキル」、そして一般社員時代に培った「社会人としてのマナー」。これら全てを使って、まずはバスケの成功実績を作ります。

最終ゴールは「日本ハンドボール協会会長」そしてプロリーグ結成

――最後に、東さんの最終的なゴールを教えてください。

東氏:将来的には日本ハンドボール協会の会長になりたいと考えています。ただし、自分から「やりたい」と言って就任するつもりはありません。「東に任せれば、この競技は変わる」と、全関係者から頼まれる人間になることが条件です。

 ハンドボールは私の人生を作ってくれました。運動音痴だった少年が、世界を舞台に戦い、多くの仲間に出会えた。その恩返しとして、子供たちが「ハンドボールを仕事にしたい」と胸を張って言えるプロリーグを作り、選手だけでなく、運営スタッフや地域住民までもが「この競技に関わってよかった」と思える世界を実現したい。

 私の座右の銘は「道険笑歩」。道は険しいですが、笑顔を忘れずに歩き続けます。なぜなら、頑張っている人には頑張っている仲間が集まってくるし、その険しさこそが、後に最高の景色を見せてくれることを、私はこれまでの人生で知っているからです。

TRENDING
TOP 10

A curated selection of our top 10 interviews, featuring thoughtful conversations with
leaders across industries. From defining moments and critical decisions to future
visions and strategies, each story offers valuable insights into how they think, lead,
and shape what comes next.