かつて、日本の冬を熱狂させた「スキー」が、今、再び大きな変革の時を迎えています。1980年代後半から90年代にかけてのバブル期、映画「私をスキーに連れてって」の影響もあり、スキー場は若者たちの社交場として大いに賑わいました。しかし、ブームが去った後の30年は、来場者数の減少と施設の老朽化、そして閉鎖の連鎖という厳しい冬の時代を迎えました。
逆風が吹く中、立ち上がった一人のレジェンドがいます。2006年トリノ五輪男子回転で4位に入り、アルペンスキー競技で日本勢50年ぶりの入賞を果たした皆川賢太郎(みながわ・けんたろう)氏です。皆川氏は現役引退後、全日本スキー連盟の理事として組織改革に心血を注ぎ、現在は岩手県の安比(あっぴ)高原スキー場をはじめとするリゾート再生の陣頭指揮を執っています。
彼を動かすのは、西武グループ元代表・堤義明氏から託された「文句があるならお前が変えろ」という言葉、そして「自分は雪屋(ゆきや)である」という揺るぎないアイデンティティーです。アスリートとして世界の頂点を目指した彼が、なぜビジネスの現場で「再生」という困難な道を選んだのか。その独自の経営哲学と、雪山に捧げる情熱の源泉に迫ります。(内田 勝治=ライター)
「再生」の本質はPLとBSを冷徹に見つめることにある
――皆川さんは現在、安比高原スキー場の経営責任者を務め、さらにはご自身の会社でもレストランや宿泊施設を運営されています。まずは、現在の活動の全体像からお聞かせください。
皆川賢太郎氏(以下、皆川氏): 今、僕の活動の主軸は大きく分けて三つあります。まず一つは、リクルートの創業者として知られる江副浩正さんが心血を注いで作られた東北の名門・安比高原スキー場の経営責任者。二つ目は、私の地元である新潟県の苗場スキー場で、22歳の時に起業した自分の会社を通じてレストランや宿泊施設を運営する事業。そして三つ目が、日本オリンピック委員会(JOC)の中長期戦略におけるデータ&テクノロジーの戦略リーダーとしての活動です。
この三つは一見バラバラに見えるかもしれませんが、僕の中ではすべて「日本のスキー・スポーツ産業をどう持続可能なものにするか」という一点で繋がっています。
――スキー場の経営に関して、インバウンド需要の影響はいかがでしょうか?
皆川氏: 確かにインバウンドは増えています。しかし、日本のスキー場が抱えている問題はそんなに単純な話ではありません。日本のスキー場は80年代後半から90年代、長野五輪(1998年)あたりでピークを迎えました。そこから30年近くが経ち、当時の施設は軒並み老朽化しています。
これまでは「日本人のお金」だけでこのインフラを維持してきましたが、もはや限界です。莫大な再投資が必要な時期に差し掛かっている一方で、日本人のスキー人口は微増にとどまっている。そうなると海外の投資を呼び込み、世界水準のリゾートとして再生させるしか道はありません。僕の本業は、この「スキーリゾート再生」そのものです。
――皆川さんが考える「再生」の定義とは何ですか?
皆川氏: 冷徹にPL(損益計算書)とBS(貸借対照表)を見つめることです。僕が安比高原をお預かりした時は、正直に申し上げて収支状況は非常に厳しかった。まず、既存の負債を整理し、償却年数を踏まえた上で、どこに再投資をしていくかの優先順位をつけなければなりません。
同時に、日々の収益を改善するために、組織構造を根本から変える必要があります。安比高原についても、5年前に就任し、わずか1年で黒字化を実現しました。その後も事業改善を積み重ね、最終年度には「真っ黒」と言えるレベルまで収益体質を強化することができました。
――黒字にするまでには、既存のスタッフとの衝突もあったのではないですか?
皆川氏: それはもう、凄まじかったですよ(笑)。僕は自分自身を「劇薬」だと思っていますし、プロパーの人たちからすれば、僕は「お邪魔な人間」だったはずです。
まずは、これまでの慣習をすべて疑うことから始めました。「課長や部長という肩書きが本当に必要なのか」「なぜ友達にギフト券を配っているのか」「収益に貢献しないオペレーションがなぜ放置されているのか」。それらを一つひとつ、合理的な判断で変えていく。これは、長年その場を「常識」として生きてきた人たちには非常に辛い作業です。
だからその人たちには、「僕は経営が良くなれば必ずいなくなる人間です。ただ、僕がいる間だけは一緒に走ってください。不満があるなら、僕がいなくなった後にもう一度考えてください」といつも言っていました。
堤義明氏から金言「文句があるならお前が変えろ」
――皆川さんがそこまでして「組織の改革」にこだわるのはなぜでしょうか? 指導者として後進を育てる道もあったはずです。
皆川氏: スポーツもビジネスも同じですが、水は上からしか流れません。現場のコーチや選手がどれだけ頑張っても、連盟や経営陣という「上流」が淀んでいれば、下流まで清らかな水は届きません。
僕は現役時代、全日本スキー連盟と何度も衝突しました。日本代表を3度、辞退したこともあります。当時の連盟からは「あいつを五輪に出さない」と告げられたことさえありました。昔の連盟は今以上に閉鎖的で、選手は連盟の「奴隷」のような空気さえありました。僕はプロとして「個」を確立していたので、そんな状況が許せなかったんです。
――そんな「反逆児」だった皆川さんが、なぜ連盟の理事に就任することになったのですか?
皆川氏: きっかけは、当時の西武グループトップであり、スキー界のドンでもあった堤義明さんです。堤さんは僕が育った苗場スキー場を作った人であり、僕にとっては神様のような存在でした。
ある時、僕が連盟への不満をぶちまけていたら、堤さんにこう言われたんです。
「そんなに文句があるんだったら、お前が変えてみろ」
そして「誰が会長だったら従えるんだ」とまで聞かれました。そこで僕は、北野さん(編集部注:北野建設会長兼社長の北野貴裕さん)の名前を挙げ、「この人なら変えられる可能性があるし、僕も従えます」と答えました。それがきっかけで、30代という若さで全日本スキー連盟の理事に、しかも実務を担う常務執行の立場に就くことになりました。
――堤さんから託されたミッションは何だったのでしょうか?
皆川氏: 具体的には「世界大会の誘致」や、競技だけでなく「教育部門の改革」など、いくつもの難題がありました。正直、やりたくない仕事も山ほどありましたが、堤さんが作られたマーケットや組織を間近で見られたことは、僕の人生にとって最大の財産です。
堤さんは、経済人として「大義」を持ってマーケットをゼロから作り上げた人です。いろいろな評価があるかもしれませんが、あの人が成し遂げたことは、人間離れしています。僕は堤さんのような「フロンティア」でありたい。その志が、今の僕を突き動かしているのは間違いありません。
アスリートこそ「世界の景色」をビジネスに変えるべきだ
――JOCでのデータ戦略リーダーとしても活動されていますが、テクノロジーの活用についてはどのような展望をお持ちですか。
皆川氏: 僕はエンジニアではありませんが、プロジェクトマネージャーとして、全競技団体のデータを一元管理するプラットフォーム作りを進めています。日本のスポーツ界は、個人のデータ管理すらまだ不十分な状態です。
将来的な目標は、そのデータベースを使って、遠隔地での医療支援やコーチング、さらには選手個人のマネタイズまで繋げること。アスリートが安心して競技に打ち込め、引退後もそのデータを活用して第二の人生を歩めるような、強固なプラットフォームを作りたいと考えています。
――「引退後の人生」という言葉が出ましたが、皆川さんは「スポーツ選手は人生を二度生きられる」と仰っていますね。
皆川氏: これはスポーツ選手という職業の最大の特権であり、同時に最大の恐怖でもあります。どんなに優れた選手でも、必ず「引退」という死が訪れる。ある日突然、ただの人に戻ってしまう。
普通のビジネスパーソンが50代や60代で感じるような「未来への不安」や「定年後の喪失感」を、アスリートは20代後半や30代で経験します。僕は、その若さで「自分の死」を見つめ、哲学を学べる機会はほかにないと思っています。だからこそ、現役の時から「第二章では自分は何屋さんになるのか」を考え抜かなければなりません。
――皆川さんは現役時代から、すでに引退後の青写真を描いていたのでしょうか。
皆川氏: もちろんです。僕は試合で世界中のリゾートを回っていましたが、他の選手が滑り方だけを考えている横で、「このスキー場の動線はどうなっているのか」「なぜこのホテルは成功しているのか」という視点でリゾートを見ていました。
例えば、カナダのブリティッシュコロンビア州の町、ウィスラーを最初に訪れた際、小さなコテージが数軒あるだけでした。それが数年経つと「For Sale(売り出し中)」の看板が立ち並び、さらに数年後には巨大な高級ホテルが建ち、最終的には街と街がリフトで繋がって世界一のリゾートになりました。その「ゼロからイチが生まれる景色」を、僕は自分の目で見てきたんです。
現役の選手たちは、実はとんでもない知識と経験の宝庫なんです。彼らが世界の雪のマーケットで見てきた景色を、ビジネスの言葉に変換するだけで、日本のスキーリゾートはもっと劇的に変わるはずです。僕は、選手たちがリゾート経営に関わるような流れを、自分自身がロールモデルとなることで作り出していきたいと考えています。
「雪屋」としての矜持、そして少数派の道を行く
――これだけの実績があれば、他の産業の再生も依頼されるのではないですか?
皆川氏: 実際にビーチリゾートの再生などの相談をいただくこともあります。でも、すべてお断りしています。理由は簡単です。僕は「雪屋(ゆきや)」だからです。
有限な人生の時間の中で、自分が100%の情熱を注げるものは何か。手法やロジックが分かっていたとしても、心から湧き出る感情が伴わない仕事は、僕がやるべきではありません。僕は雪山に育てられ、スキーによって生かされてきた。だから、自分の時間は雪のためにだけ使いたい。これが僕の矜持(きょうじ)です。
――お父様から授かった教育方針も、その考え方に影響していますか。
皆川氏: 父からは「ずるい選択をするな」と口酸っぱく言われてきました。人生の岐路に立った時、どちらが自分にとって旨味があるか、ではなく、どちらが本質的に正しいかを選べ、という意味です。
そこから僕は「多数派と少数派の法則」という独自の哲学を持つようになりました。日本人はどうしても群れをなすことを好みますが、僕はあえて少数派を選びます。もし、正しいことが少数派にあるのであれば、たとえ孤立してもそちらを選ぶ。スキー連盟の改革の時もそうでしたし、今のスキー場経営でもそうです。
――皆川さんが目指す「究極のゴール」を教えてください。
皆川氏: 日本のスキーリゾートがもう一度、世界に誇れるマーケットとして自立することです。かつて堤さんが作ったような、あるいはウィスラーのような、人々に夢と希望を与える場所を、現代のやり方で再興させたいんです。
僕は評論家にはなりたくありません。「スキー場はこうあるべきだ」と外から言うのではなく、自ら泥をかぶって経営し、一つのロールモデルを見せる。僕の背中を見て「皆川ができるなら、自分もスキー界のために何かができるはずだ」と思う次の世代が出てきた時、僕の仕事はようやく完結するのだと思っています。
――「良くなったら必ずいなくなる」と仰っていましたが、その時は本当にスキー場を離れるのですね。
皆川氏: そうですね。その時は、また新しい「死」を迎え、第三の人生を歩み始めるのかもしれません。でも、今は「雪屋」として、目の前の山を世界一の場所にする。その一点に、僕のすべてを賭けています。