6歳で書を始め、極度の人見知りから自分を守るために墨をすった岡西佑奈氏。
一度は筆を置き演劇の道へ進むも、知人の一言を機に書く喜びを取り戻し、涙と共に筆を執った。
デジタル全盛期に墨の「生々しさ」を追求する真意とは。

静謐(せいひつ)なアトリエに墨の香りが漂う中、白い紙の上を縦横無尽に駆け抜ける筆跡は、伝統的な「書」の概念を鮮やかに塗り替えていきます。書道家の岡西佑奈(おかにし・ゆうな)氏は、6歳で筆を握り、10代で師範免許を取得。一度は演劇の世界に身を投じますが、再び運命に導かれるようにして筆を執りました。その線には、自然界への深い慈しみと生命力が宿っています。

代表作「青曲」に見られるサメのしなやかな動きや、神秘的なブルーの旋律は、彼女が積み重ねてきた禅修行やダイビングを通じて感じた、地球環境への危機感から結晶したものです。単なる文字の美しさを超え、万物の調和を「線」として写し取る創作スタイルは、いまや東大寺への奉納や世界各国の美術館での所蔵へと結実し、国際的な評価を確固たるものにしています。

デジタル技術が席巻する現代において、彼女はなぜ不自由な墨と筆にこだわり続けるのでしょうか。人見知りに悩んだ幼少期から「作為なき表現」という独自の哲学に辿り着くまでの心の軌跡。二児の母としての眼差しや、次世代へ繋ぐ「3A」の精神を交えながら、「岡西佑奈」という表現者の深淵なる世界に迫ります。(内田 勝治=ライター)

誰とも喋らなかった少女を救った「自分一人の世界」

――6歳から書を始められたそうですが、当時の岡西さんにとって「書くこと」はどのような意味を持っていたのでしょうか?

岡西佑奈氏(以下、岡西氏):幼い頃の私は、とにかく極度の人見知りでした。幼稚園に入った時は1カ月間、誰ともしゃべらなかったそうです。そんな私を心配した両親が、小学校に入学するタイミングで会えなくなってしまった前の学校の友人と会えるように、書道教室に通わせてくれたのが始まりでした。

 そこは、友達とワイワイ遊ぶ場所ではなく、ただ静かに白い紙に向かい、墨をすり、筆を走らせる場所。自分一人の世界に入っていける書道は、自分の性格に驚くほどフィットしました。誰かと話さなくても、自分の感情を筆に乗せて吐き出すことができる。私にとって書道に向き合う時間は、精神を安定させるためのもので、本当に重要な存在だと、大きくなるにつれて実感しています。

――高校在学中に師範免許を取得されますが、そのタイミングで一度、書道を完全に辞められています。

岡西氏:長年師事していた先生が亡くなってしまったことが、何より大きな理由でした。それまで私の書を見て、導いてくれた存在がいなくなった。師範免許も取ったという区切りもありました。

 ちょうど高校2年生の頃、演劇の世界に触れる機会がありました。蜷川幸雄さんの舞台「マクベス」で大竹しのぶさんの演技に圧倒され、「絶対に女優になろう」と思ったんです。舞台では人見知りの性格も関係なく、自分じゃない何者かになって、大声で泣いたり叫んだり、いろいろな演技をできます。自分の夢を追うために、筆や硯(すずり)といった書道道具をすべてガムテープでぐるぐる巻きにして押し入れにしまい、演劇の道へ進むことを決めました。

 小学生の頃から桐朋学園で学び、同芸術短期大学の演劇専攻に進みました。入学する年に蜷川さんが学長になられたのも運命だったのかもしれません。そこから、演劇にのめり込んでいきました。

 ただ、やはり人見知りの部分が結構出ました。演劇の世界は舞台の上で演じるだけでなく、結構な頻度で交流があるんです。舞台後に飲みに行き、そこで監督や演出家と「今日の舞台はどうだったか?次の舞台はどうしたらいいか?」など、いろいろ話し合うんです。

 でも、私はそういう飲みの場がどうしても好きにはなれませんでした。皆が毎晩のように飲みにいく中で、私は早々に家へ帰り、自炊をしたりしていました。ただ、そんな自分にストレスを感じることもありました。

――4年間の演劇生活を経て、再び筆を執った理由は何でしょうか?

岡西氏:転機は、本当にささいなことでした。実家に遊びに来た知人が、冷蔵庫に貼ってあった高校時代の私の作品を見て、「これ書いたの? すごいね。もう一回書いてみればいいじゃない」と言ってくれたんです。

 その言葉に背中を押されるように、その日の夜、押し入れから書道道具を取り出しました。そして書き始めたら涙があふれてきました。「私、書道がやりたかったんだ」と改めて気づいたんです。

 自分でも無意識のうちに我慢していて、書き始めたら抱えていた問題から解き放たれたみたいな感情もあって、朝までずっと泣きながら書き続けました。それから、演劇業界でお世話になった方々に全員お話しして「女優を辞めて書家になります」と伝えました。

――書家として進む上で影響を受けた方はいますか?

岡西氏:書家になってまもなく、水墨画を始めましたが、関澤玉誠先生からは本当に影響を受けました。最初は恐る恐る教室に通ったら、優しくてフレンドリーで、外国人に対しても一生懸命に教えていらっしゃるんですよ。一気に大好きになって、毎週通いました。「自分がいいと思った水墨画の技法をどんどん取り入れて、岡西さんにしか作れないものをどんどん作りなさい」という先生からのアドバイスがすごく心に残っていて、背中を押してくださったことで、いろんなコンクールに作品を出しました。

憧れのサメと直面した悲しい現実 「青曲」に込めたメッセージ

――岡西さんの代表作である「青曲」シリーズについて伺います。なぜ「サメ」と「地球」というテーマにたどり着いたのでしょうか?

岡西氏:私は小さな頃から海とサメが大好きなんです。大阪の海遊館でジンベエザメを初めて間近に見た時に一目惚れしました(笑)。臆病な性格の私にとって、大きくて優雅なサメが大きな口を堂々と開けているあの姿が憧れだったんです。サメは「軟骨魚類」といって、骨が柔らかく、美しい曲線美で泳ぎます。その曲線美に魅了され、その美しさを書やアートで再現しようと筆を走らせたのがきっかけです。

 サメと一緒に泳ぐためにダイビングの練習に明け暮れてライセンスを取得しました。しかし、ダイビングを続ける中である悲しい現実に直面しました。美しいサンゴ礁の中にビニール袋が漂い、乱獲によってヒレだけを切り取られたサメが海に沈んでいく。海が汚染され、生態系のバランスが崩れる問題は、手を加えてしまったことに対する人間の責任です。そういったメッセージを表現したのが「青曲」です。泳ぐサメの姿をモチーフに、海の環境保全への願いが込められています。

 最初からアイデアが生まれてくるわけではありません。昔は一人でたくさん旅をして、その先々でフレッシュな感覚や、刺激を受けてインスピレーションを湧かせるといったことが多かったですが、今は子供もいるし、以前のようには容易に旅もできないぐらい目まぐるしい1日の連続です。ただそんな中でも子供たちと一緒に美術館へ出かけたり、緑豊かな森の中で遊ぶことも多く、自然の中でインスピレーションが湧くことも少なくはないです。もちろん昔から1人になった時にアイデアが泉のように湧くので、この時間は大切にしています。

「一番派手な色は白と黒」 魅了され続けるモノクロームの世界

――現代は生成AI(人工知能)を活用したり、デジタルツールを使えば完璧な線が瞬時に作れます。それでもなお、「墨」というアナログ手段にこだわる理由は?

岡西氏:私の中ではアナログという意識はなく、むしろ好きだから書いているという感覚なんです。私にとって、一番派手な色は白と黒だと思っていて、墨の黒にもいろいろな黒が存在しているんです。そのモノクロームの世界にも魅了され続けています。

 また、書道は歴史や文化に感性で触れ、心を豊かにするものじゃないかと思っています。むしろ、このデジタル全盛の時代だからこそ、アナログな表現の価値が際立つと考えていますし、墨で表現し続ける理由はそこにあるのではないでしょうか。

 ChatGPTをはじめとする生成AIは便利に使っていますし、技術自体を否定はしません。AIは表現の幅を広げてくれるものだと思っていますが、それを取り入れるかと言えば、取り入れないでしょうね。人間の生々しさを大切にしたいんです。これからも自分から出てくる感情を大事にしながら作品を書いていきたいです。

――二児の母として、お子さんへの教育もアナログを重視されているのでしょうか?

岡西氏:家ではテレビもYouTubeもほとんど見ません。私自身、目に持病があることもあり、子供たちは目をあまり酷使してほしくないんです。もちろん、タブレット教材やゲームから学ぶこともたくさんあると思うのですが、もう少し段階を追ってからですね。

 それよりも書道をさせてあげたい。最近は4歳の長女に教えているのですが、自分の子供となると、力が入りすぎてしまうんですよね…楽しい!と思える経験を積んでいってほしいので私ではなく、別の教室に通わせたほうが良いかなと思っています。

次世代に伝えたい「3A」の精神

――世界各地で個展を開催するなど国際的な評価も高まっています。当サイトに寄せてくれた「Club361°」の書も見事です。これからの展望を教えてください。

岡西氏:誰もが見たことのない作品を作っていきたいです。私が大切にしている言葉に、「3A(慌てず、焦らず、諦めず)」というものがあります。今の時代、SNSで他人の活躍がすぐ目に入り、焦ってしまうこともあります。でも、他人の答えを自分の正解にする必要はありません。自分が美しいと思うものを信じ、それを発信し続けていれば、必ず応援してくれる人が現れます。今後も、人との出会いを大切にしながら筆を走らせていきたいです。

――もし誰かに転機を与えるとしたら、どういう言葉をかけてあげたいですか?

岡西氏:ありきたりな言葉ですが、「必ず夢は叶うから、自分を信じて、周りを信じて突き進んでください」と伝えたいですね。私なんかまだまだ未熟で大それたことは言えないですが、まずはしっかりとイメージを持って活動を始めることが大切だと感じています。例えば独自性を持って活動していきたいのであれば、美術館や展示会に行って美しいものを観る。世界的に有名な方の作品がなぜ売れているのかといった作品の物語や背景を知る努力をする必要があります。無駄なことは何一つありません。「3A」の精神でともに頑張っていきましょう。

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