俳優として活躍する傍ら「農福連携」を軸に起業した小林涼子氏。
その決断の裏には家族の病や深い挫折という人生の転機があった。
遠回りをしたからこそ言える、しなやかな生き方の本質を聞く。
俳優として活動を続ける傍ら、会社経営者として「農福連携」を軸にした事業を展開している小林涼子(こばやし・りょうこ)氏。農福連携とは、農業と福祉を組み合わせた言葉ですが、AGRIKO(アグリコ、東京・渋谷)で代表取締役を務める小林氏が手掛ける事業は、これに「食」を加えた「農福食」をテーマとして掲げています。2021年の起業以来、都内ビル屋上などを利用した都市型農園「AGRIKO FARM(アグリコファーム)」の運営や、障害者雇用の支援、心身の健康を目的とした法人向けのアートレンタル事業などを展開。新しい視点からSDGs(持続可能な開発目標)の価値を発信し続けています。
「福祉」という言葉の持つイメージを再定義したいと考える小林氏。「福祉」の語源は「幸せ」であり、誰かをケアする、される、という一方的な関係ではなく、心と体が元気でいられる「幸せ」な状態を目指したいと語ります。
一見すると、華美な俳優業と、土にまみれる農業や社会課題に取り組む福祉は、異色の組み合わせに見えます。しかし、小林氏にとって、この二つの道は、人生における大きな「転機」から生まれた必然のキャリアでした。本インタビューでは、4歳で芸能活動を始めた幼少期から、最愛の家族の病、女優業での苦悩、そして起業を決意させた人生の転機について、話を聞きました。(内田 勝治=ライター)
「母にテレビに出演する姿を見せたい」一念が俳優を「職業」に変えた
――俳優のお仕事を始めたきっかけを教えてください。
小林涼子氏(以下、小林氏): 幼稚園の同級生が子役をやっていたことがきっかけです。いつもかわいい格好をしていてとても楽しそうだったので、私もやりたいなと思い始めました。最初は七五三のモデルやスーパーのチラシなど、映像ではないお仕事が多かったですね。
――その頃は将来的に俳優を続けたいという意識は?
小林氏: 全くなかったです。オーディションに受かるとシールがもらえるからやっているという感覚でした。
――クラシックバレエの道に進もうとした時期があったと伺いました。
小林氏: 中学に上がるタイミングでバレエを本格的にやろうとしたのですが、怪我で断念してしまいました。その時、たまたま近所の方に声をかけられてモデル事務所に所属することになったのですが、それでもまだ将来のことは考えていませんでした。
ところが、中学3年時にオーディションに受かり、テレビドラマ「一番大切な人は誰ですか?」(2004年)で、宮沢りえさんの娘役を演じることになったんです。宮沢さんから「高校には行った方がいいよ」とアドバイスをいただき、中学卒業後は学業と芸能活動が両立しやすい堀越高校へ進みました。
――そのドラマ出演が、女優という仕事を意識する転機になったのですか?
小林氏: 転機になったのは高校入学直後の、母が癌になった時です。まさか癌だとは思わずビックリしました。母はそこから闘病生活を始めるのですが、入院している期間、私が映画のロケに行っている時に「来年春の公開を楽しみに治療を頑張る」と話していたんです。その時に、自分の仕事が、誰かの1年後の生きる希望になるんだと初めて俳優という仕事の「意味」を感じ、続けていく決心をしました。
――母の病が女優業を本格化させるきっかけになったのですね。
小林氏: とにかくテレビに出たいという一心でした。なぜなら、病室にいる母にテレビを通じて自分が出演する姿を見てもらえると思ったからです。それから、どんなに小さな役でも必死になってドラマの仕事を続けました。母はすごく喜んで見てくれました。俳優としては、正しいかわからないモチベーションかもしれません。でも、私はこれを「私の働く意義」として捉えていて、誇らしく取り組んでいました。今でも母は私の仕事を誰よりも楽しみにしてくれていて、この仕事を選んで良かったと心から思っています。
「もう仕事ができないかもしれない…」挫折を救った新潟での農業体験
――女優としてのキャリアを積んでいく中で、挫折した経験はありますか?
小林氏: 必死に頑張って、オーディションにもたくさん行き、取れそうな資格も取って、やれることは全部やったつもりでも、手を挙げたからといってドラマに出られるわけではありません。オーディションに落ちる度に、毎回悔しくて一瞬は「もう辞めてやる」っていう気持ちになるんです。朝ドラ(NHK連続テレビ小説)も「虎に翼」(2024年)でご縁をいただくまで、十何年間、落ち続けました。仕事が思ったように入らず、自分が描いたようなキャリアが描けませんでした。これ以上どう頑張ったらいいんだという気持ちになってしまったんです。
心に余裕もなくて、オーディションで本気すぎて相手を泣かせてしまったこともあります。今思えばもっと柔軟に考えればよかったのですが、この世界で生きていこうと決めたこともあり、どうしても仕事が欲しかったし、真剣になりすぎるあまり、ついきつく当たってしまったという部分がありました。
演技を本格的に習った経験もなく、現場では監督によく怒られていました。撮影で40テイクやったこともあります。我流の中で及第点を取らなければならないので、いつもヒリヒリ必死でした。
24歳の頃でした。ふと「私ってこの先、売れる未来があるのかな」と、思い始め、急にもう頑張れなくなってしまいました。英語や韓国語、社交ダンス、ギター、日本舞踊…。とにかく仕事に繫がれば!といろんなことにチャレンジしましたが、周りが売れていったり、結婚していったりする中で、自分だけがいくらもがいても進めない立ち止まっているような感覚でした。それまではメンタルも強くて健康で意欲的だったのに、自分がそんな状態になったのもショックでした。
――その辛い時期に、農業と出合われたのですね。
小林氏: 4歳からずっと走り続けてきて心身ともに疲れ切っていました。起きていてもやることがないから寝ていたい、という毎日が続いていたんです。その時、家族のすすめで、新潟にある父の友人の棚田にお手伝いへ行きました。
カルチャーショックを受けました。そこには高齢の方しかいなくて、私が売れていようが売れていまいが関係ないんです。都会とは違い、容易にブランドバッグを置けるような環境ではありません。ただ、つぎはぎの作業着を着せられて稲を刈り、汗をかくという作業が、張り詰めていた気持ちを緩やかに溶かしてくれました。都内には都会の、田舎には田舎の豊かさがあり、その価値観は全く違うものだと気がついたんです。
――評価軸が変わったのですね。
小林氏: それまで売れない自分には価値がないと思っていたのですが、野菜を洗うのがうまいという理由で感謝されたり、ウチに養子に来いと言ってくれるおばあちゃんがいたりして、ここでなら生きていけるかもしれない、という感覚が、私を元気にしてくれました。それからというもの、農繁期には家族で新潟に行き、農家さんのお手伝いをして心身をリフレッシュすることが自分にとってかけがえのない時間になりました。
そうして女優業に戻った時、オーディションでの目線が変わりました。「この人に負けるかもしれない」といった余計なことを考えず、まっすぐな気持ちで臨めるようになり、自分らしさを取り戻すことができました。
「やる人にしか正解はない」 起業を支えてくれた周囲の優しさに感謝
――農業での再出発を経て起業に至った経緯を教えてください。
小林氏: 私がやっていた新潟の農業のお手伝いは、皆さんの善意の上で楽しませてもらっていた部分が大きく、誰か一人がバランスを崩すと今までのようにできなくなってしまうという不確実性や自分の無責任さ、甘えに気づきました。また、家族が病気になったこともあり、体調があまり良くなくても続けられるようなバリアフリーな農業の形を作れないかと考えたんです。
――それが、福祉というテーマにつながるのですね。
小林氏: かつて私自身が頑張れなくなった経験から、福祉は他人事ではない、誰かのためではなく「自分のためにやるべき」だという気持ちが芽生え、農福連携という形を目指しました。自分自身もメンタル状態が悪いところから農業を始め、ヒーリングのような効果があると思ったし、土をはじめとする自然と向き合うことで、達成感や心地よさみたいなものもありました。ただ単に生産性だけに農業の価値を見いだしていなかったので、農福連携は私の中ですごくしっくりきました。自分ができることを組み合わせていくことで自分なりの農業の形を作ろうと思ったのが大きな理由です。
――人生の中で転機を挙げるとしたら、いつ、どんな場面になりますか?
小林氏: 2021年に起業したタイミングです。社会は思ったより優しくて、応援してくれる方が大勢いました。その一人でも欠けたら、今の私は成立していません。それこそ農林水産省に履歴書と事業計画を送った時も、それを通してくれた方がいなければ、「農福連携技術支援者」の資格を取得することはありませんでした。
自分の背中を押してくれた方がいたのも大きかったです。ある会社の社長さんに起業を相談したところ、「やるか、やらないか。やる人にしか正解はないから、やった方がいい」と言われたんです。
――その方が転機をもたらしてくれたのですね。
小林氏: その言葉から1カ月で書類手続きを終え、本当に起業しました。ある方は、都市での農業を諦めかけた時に屋上を貸してくださり、またある方は、弊社の農園を見てくださり、商業施設でのプロジェクトにつながるなど、社会や人の優しさに気づかされました。
――俳優業と経営者の両立で心がけていることは?
小林氏: どちらも全力投球。どちらも本業。俳優業で売れていないから起業した、と言われるのが嫌で、起業した日から、オファーされた仕事はできるだけ全部受けるようにしています。おかげさまで、起業以来、毎クール必ずドラマに出演し続けています。
「それだけじゃなくていい」二刀流キャリアが拓く可能性
――経営者としての経験は、俳優業にどう生きていますか?
小林氏: 役作りの幅が格段に広がりました。いただいた役の「個人の個性」だけではなく社会における属性が分かるようになったというか、例えばこの場所、部屋に住んでいる人なら会社ではどういうポジションで、年収はいくら、生活水準は、美容室には月何回いきますよね、と想像できるだけで、その人の社会での輪郭になっていくんです。役者としてこんなにも世間知らずだったんだなと反省しました。
――逆に、俳優業を続けていることが、会社経営にメリットをもたらしている部分はありますか?
小林氏: 私のような人間がメディアで連載をさせていただいたり、さまざまな経営者の方にお会いしたりできるのは、俳優業というキャリアのおかげだと思っています。経営者の先輩方のお話を伺い、今まで知らなかった「ものの見方」を知る機会を得られるのは、本当に恵まれていると感じます。
――ご自身の歩まれてきた経験を基に、将来に悩んでいる人へ、どのような言葉をかけたいですか。
小林氏: 「それだけじゃなくていいんだよ」ということを伝えたいです。俳優って芸を突き詰める仕事なので、かっこいいと言われることが多く、私も女優然としたいと葛藤する日もあります。でも、キャリアを広げたことで、こうやってまた改めて女優として仕事することができています。例えば野球選手にはなれなくても、始球式で投げることはできるように、夢の叶え方はいっぱいあります。
――遠回りをしたからこそ言える言葉ですね。
小林氏: そう思えたからこそ、今の私がいるのだと思います。女優業は記憶に残る表現、会社経営は未来に残る表現。どちらも「表現」だと思って、これからも二刀流の道を歩んでいきたいです。