J通算472試合出場の関口訓充はプロの厳しさと覚悟を知っている。
帝京で培った反骨心と名門クラブでの葛藤を越えて見えた新境地。
自分の選択を正解に変える生き方と若手に伝えたいメッセージとは。
元サッカー日本代表で、J1通算225試合出場を誇る関口訓充(せきぐち・くにみつ)氏は、ベガルタ仙台、浦和レッズ、セレッソ大阪といったJリーグの名門クラブで通算472試合(J1通算225試合、J2通算247試合)に出場。現在は関東サッカーリーグ2部のジョイフル本田つくばFCで現役を続けています。40歳のベテランでありながら、その高いパフォーマンスと身体のキレは衰えを知りません。
華々しいキャリアの裏には、帝京高校時代に培われた泥臭いハングリー精神と、過酷な環境を生き抜いてきた圧倒的なストイックさがありました。社会人リーグへ飛び込み、環境が変わっても、プロとしての矜恃は決してブレることがありません。若い世代が忘れがちな覚悟を持った生き方や、自らの決断を正解に変えていく捉え方について、余すところなく語ってもらいました。過酷な競争の世界で戦い続けてきた男の、飾らない本音の言葉をお届けします。(内田勝治=ライター)
名門の帝京高校で教わった「最後までやり切る」ことの大切さ
——ジョイフル本田つくばFCに移籍されて半年以上が経過しました。チームの雰囲気やご自身のパフォーマンスはいかがですか?
関口訓充氏(以下、関口氏): チームは若い選手が多く、すごく明るい雰囲気でやれています。大卒の22歳から25歳くらいの選手がメインなので、年齢的には僕が一番上ですね。10歳以上離れている選手ばかりです。自分の経験を伝えることはもちろんですが、厳しく言うべきところはハッキリ言います。「今の意識や取り組みのままじゃダメだぞ」と。今の若い子は真面目な選手が多いですが、プロを目指す上での厳しさや必死さという面では、物足りなさを感じることもありますね。
自身のパフォーマンスに関しては、今年はほぼ全試合でフル出場できています。去年より出場試合も出場時間も長くプレーさせてもらえているので、状態は良いと感じています。
——40歳のベテランとして、コンディション維持で意識していることは何でしょうか?
関口氏: Jリーグのクラブとは違って、社会人チームではトレーナーや治療器具の数も限られています。1人の選手に長い時間をかけられない環境だからこそ、セルフケアを徹底しています。交代浴やサウナを活用しながら体の状態を整えるなど、自分でできるケアをやり続けることが大切だと思っています。
——サッカーを始めたきっかけについて教えてください。男4人兄弟の3番目として生まれたそうですね。
関口氏: 家の中では常にボールを蹴っているような環境でした。兄弟全員がサッカーをやっていて、長男がやっていた影響で僕も気づいたときにはボールを蹴っていました。幼稚園の年長でクラブに入り、常に兄2人の後ろを追いかけていました。
Jリーグが開幕した1993年は8歳でしたが、その時からJリーガーになりたいという夢は持っていました。
——名門の帝京高校に進学された理由を教えてください。
関口氏: 中学時代の1学年上の先輩が帝京に進学していたことと、1998年、雪の中で行われた全国高校サッカー選手権決勝の帝京対東福岡が強く印象に残っていたからです。多摩市の自宅から毎朝5時7分の始発電車に乗り、1時間半かけて通っていました。朝練のために6時半には学校に着くというハードな3年間でした。
——帝京高校の3年間で得た最大の学びは何ですか?
関口氏: 当時監督だった古沼貞雄先生に言われた言葉が、今でも根底にあります。「20メートルを走るときに、全力で走り切る選手と、18、19メートルでスピードを緩める選手がいる。1本なら1、2メートルの差だが、年間100本走ったらどれだけの差になるか」ということです。最後まで走り切る、やり切ることの大切さを徹底的に叩き込まれました。
当時は練習中の給水も制限されるような時代でした。科学的にどうかは別として、「自分たちはこれだけきつい練習をやっているんだから、遊んでいるやつらに絶対に負けるわけがない」という強烈な反骨心が芽生えました。あの理不尽とも言える過酷さを乗り越えたからこそ、今でも現役を続けられているのだと思います。
「プロとして認められたい」一心でベガルタ仙台のJ1昇格に貢献
——高校時代、トップチームに台頭したきっかけは何だったのでしょうか?
関口氏: 1年の夏の合宿です。早朝から行う「帝京飯前リーグ」という部内戦で、たまたま僕がアシストを決めたプレーを古沼先生が見ていたんです。「1年で面白いやつがいる」と、レギュラー組に引き上げられました。あのタイミングで結果を出せなければ大人数の中に埋もれていたかもしれないので、チャンスをつかむ運とタイミングの重要さを実感しました。そこから、2年時にはインターハイ優勝、3年時には準優勝、全国高校サッカー選手権でベスト8の成績を残すことができました。
プロ入りを意識したのは3年春ごろです。関東大会で優勝したのですが、その時に仙台のスカウトが見ていて、そこから練習に呼ばれて参加しました。先輩にもよくしてもらい、街の雰囲気も凄く良かったので、地域に愛されているクラブなんだなと実感して、仙台入りを決めました。
——帝京高校卒業後、2004年にベガルタ仙台へ入団されます。プロの壁は感じましたか?
関口氏: 全然違いましたね。特に対人の強さとフィジカルのレベルには圧倒されました。ただ、自分のストロングポイントである「ドリブル」だけは通用するという手応えがありました。だからこそ、ぶつかり合いのフィジカルをどう補うかを徹底的に考えました。
仙台は当時J2だったので、 「早くJ1に上がりたい」「J1で結果を出してプロとして認められたい」という一心でした。必死でしたね。当時は今と違って移籍もしづらかったので、仙台を自分の力で昇格させるしかないという強い覚悟を持っていました。
2009年にJ2優勝を果たし、2010年からJ1の舞台で戦うようになってからは、レベルの高さを再認識しました。J1は個人の武器が際立っている選手ばかりです。僕自身も、得意のドリブルをより生かすためにクロスの精度やキックの技術を磨きました。相手が警戒して飛び込んでこなくなればクロスを上げられるし、飛び込んでくればドリブルで抜ける。選択肢を増やす努力を重ねました。
——2010年には日本代表に初選出されました。アルゼンチン戦での初キャップはどのような記憶として残っていますか?
関口氏: 南アフリカワールドカップ直後の代表発足1発目の集結で、本当に緊張しました。対戦相手のアルゼンチンにはバルセロナで全盛期だったメッシがいて、何人で奪いに行ってもボールが奪えませんでした。肌で感じた世界トップの異次元のすごさは忘れられません。
代表のピッチで学んだことは、「この次元で日常的に戦わなければいけないんだ」という基準の高さですね。パス一本のスピード、トラップの精度、判断の早さ。すべてにおいてJリーグより数段上のクオリティが求められる。うまい選手と一緒にやることによって、また違った感覚を得ることができました。
浦和レッズで過ごした2年間で広がったプレーの幅
——2013年には浦和レッズへ完全移籍されます。ビッグクラブでの挑戦はいかがでしたか?
関口氏: 埼玉スタジアムの6万人の大歓声と独特の緊張感の中でプレーできたことは、選手として素晴らしい経験でした。ただ、浦和ではチームの厳格な戦術にうまく適応できず、出場機会を減らすことになりました。仙台時代はある程度自由なスタイルでやらせてもらっていた分、決まり事の多い戦術に窮屈さを感じ、プレーに迷いが生じてしまったんです。
ただ、当時はうまく落とし込めなかったものの、あの2年間で戦術的な頭の整理やプレーの幅が確実に広まりました。苦しい2年間でしたが、今の自分を形作る上で非常に濃い、必要な時間だったと思っています。
——その後、セレッソ大阪への移籍、そして再び仙台への復帰を果たします。
関口氏: C大阪ではJ2からJ1への昇格を経験しました。強いチームが必ず上がれるわけではない難しさの中で勝ち抜く喜びは格別でしたね。仙台に戻ってからも、頭蓋骨の陥没骨折という大きなケガを負いましたが、フェイスガードをつけて即復帰しました。チームの残留がかかっている場面で、怖さを理由に引く選択肢はありませんでした。覚悟を決めて退路を断つ姿勢を見せることが、チームの士気にもつながると思っていました。
——2022年からは関東サッカーリーグ(南葛SC、COEDO KAWAGOE F.C、つくばFC)でプレーされています。Jリーグを離れる決断に迷いはありませんでしたか?
関口氏: 仙台を退団した年、J1で28試合出場していて、「まだやれる」という自負はありました。ただ、年齢や新型コロナウイルス禍でのクラブの資金難もあり、厳しい提示が多かった。
僕には守るべき家族がいます。Jリーガーという肩書きに固執して、家族に苦しい思いをさせるのは違うと思ったんです。変なプライドを捨て、社会人リーグでプレーしながら個人スポンサーを募り、自力で価値を高めて稼ぐ道を選びました。
南葛SCに入った当初は夜間練習(19時〜21時)で、中学生以来の環境でした。専用グラウンドもなく、練習場を転々としながらスパイク代や移動費にお金をかけてサッカーを続けている選手たちが大勢いました。Jリーグがいかに恵まれていたかを痛感しましたし、それと同時に、純粋にサッカーを楽しむ熱量を思い出させてもらいました。
——地方の社会人チームではなく、関東リーグで戦い続けることにこだわりはあるのでしょうか?
関口氏: 地方のリーグだと1強状態になりがちで、勝負としてのヒリヒリ感が薄れてしまうことがあります。関東リーグはレベルが高く、1試合1試合が真剣勝負です。まだ動けるうちに、勝ちか負けかの緊張感ある戦いの中に身を置きたい。そして、最後は自分を育ててくれた仙台で引退したいなという思いがあります。
覚悟を決めた道に失敗なし…その選択を「正解」に変えていく努力が必要
——今の若手選手たちを見ていて、感じている課題はありますか?
関口氏: 口では「上のカテゴリーに行きたい」「Jリーガーになりたい」と言いながら、日々の行動やサッカーへの向き合い方が甘い選手が多いと感じます。全国には、人生をかけて必死にトレーニングしているやつらが山ほどいる。その中でチャンスをつかめるのはごくわずかです。
華やかな面だけを見て、過酷な部分を見ようとしない。「そんな中途半端な姿勢や行動で上に行けるわけがない。言っていること自体が恥ずかしいぞ」と、僕はハッキリ伝えるようにしています。
トレーニングで何点取ろうが、試合で結果を出せなければ評価されません。常に次の年の契約を勝ち取るために戦うストレスや不安と戦い続けなければならない。そういう覚悟を持ってサッカーに向き合ってほしいんです。僕自身のこれまでの経験を伝えることで、若い選手たちの意識を変えていきたいと思っています。
——最後に、人生の選択や決断に迷っている若い世代へ、メッセージをお願いします。
関口氏: 「こうなりたい」という強い信念があるなら、絶対にチャレンジすべきです。逆に、迷っているなら移籍や挑戦はやめた方がいい。「迷い」を持ったまま動いても、良い結果は出ません。
ただ、自分で覚悟を決めて選んだ道であれば、仮に試合に出られなかったとしても、それは失敗ではないんです。新しい環境で出会う人、新しい戦術から学べることは必ずある。僕自身、浦和での2年間は苦しかったですが、後悔は一切ありません。自分で決めた選択を、その後の自分の取り組みによって「正解」に変えていく。それこそが、人生において最も大切なことだと思います。