ガーナ出身の父の下、4歳からボクシングを始めた平岡アンディ。
陸上で鍛えた足腰を武器にプロボクサーへ。
デビュー24連勝後の初黒星――それでも世界王座を諦めない。
プロボクサーの平岡アンディ(ひらおか・あんでぃ)氏は、ガーナ出身の父の影響で4歳からボクシングを始め、厳格な指導を受けて育ちました。友達と遊ぶ時間もないほどのスパルタ教育に反発を覚えた時期もありましたが、史上初めて無敗のまま5階級制覇を達成したフロイド・メイウェザー・ジュニア(米国)のドキュメンタリー番組に触発され、ボクシングで家族を支えたいという夢を抱くようになります。
横浜高校(神奈川)時代は陸上部にも所属。中長距離を得意とし、3000mで国体に出場するほどの実力を持ちながら、最終的にはボクシング一本の道を選択し、在学中にプロライセンスを取得しました。その後、単身で米ロサンゼルスに渡り、2年間の武者修行を行い、心身ともに成長して帰国。大橋ボクシングジムに所属を移し、2024年にはプロデビューから24連勝を飾ります。
しかし、以降はなかなかマッチメイクがされず、葛藤に苦しむ中、1年半ぶりの試合で待っていたプロ初黒星――。現在は無所属で調整を続ける平岡氏には、さまざまな「転機」がありました。今回は、幼少期の原体験から今後の目標まで、じっくりとお話を伺いました。(内田勝治=ライター)
厳格な父の教えと陸上での才能開花
――平岡さんはどのような幼少期を過ごされたのでしょうか?
平岡アンディ氏(以下、平岡氏): 4歳の頃から、父の影響でボクシングを始めていました。物心つく前からボクシングをやっていたという感じで、2人の妹とほぼ同じタイミングで一緒にやっていました。中学生くらいまでは3人でずっとボクシング漬けの生活で、友達と遊ぶ時間もあまりありませんでした。
父からは、人間としての強さを磨くことを学びました。ガーナ出身なのですが、礼儀を尊ぶ日本らしい考え方を、ボクシングを通じて教わりました。ただ、かなりのスパルタ教育でした。今の時代では考えられないくらい厳しかったです。昭和の時代を感じさせるというか……。逆に母は、水のような存在。父が火だったら母は水。逃げ道になってくれる存在でした。
――上達が遅かった時期もあったそうですね。ボクシングを辞めたいと思ったことは?
平岡氏: 妹の方が女の子ながら上達が早く、一方で自分は泣き虫。正直辞めたいと思ったこともありました。他のスポーツをやりたいなと思ったこともあったんですが、父が怖いので、結局は諦めるという感じでした(笑)。中学に入る前くらいから、ボクシングで飯を食いたいなと思うようになりました。フロイド・メイウェザー・ジュニア選手に憧れていて、彼のドキュメンタリー番組を見て、ボクシングで家族を助けて自分の好きなものも買えるようになりたいと思ったんです。
――横浜高校時代は陸上部にも所属されていたとか。
平岡氏: 中学から陸上を始めました。実は父との早朝ロードワークから逃げたかったというのもあるんです(笑)。当時、朝4時半から走らされていて、それがきつくて…。陸上部の朝練はそこまで早い時間からでもないですから。そこから中距離を専門に走るようになって、3000mで国体にも出場しました。都道府県対抗駅伝でも5000mで県記録を持っていた時期があって、ある程度名前が知られる選手にはなれたと思います。陸上でいろいろな大学からのお誘いもあって、正直ボクシングと陸上のどちらに進むか迷った時期もありました。
ただ、もともと4歳からずっとボクシングを続けていて、プロになるという夢を持っていました。もちろん、陸上でもある程度結果を出していたので少し迷いはありましたが、ボクシングでプロになることはすでに決まっていました。高校在学中にプロテストを受けて合格し、試合にも出ています。
どのスポーツも走ること、足腰を鍛えることが大事だと思うので、陸上で培った体力面は今もプラスに働いていると思います。自分はボクシングの試合中、よく動くタイプなので、そこは陸上との相性が良かったですね。
――横浜高校は野球強豪校としても有名ですね。同級生の伊藤将司選手(阪神)や浅間大基選手(日本ハム)、渡邊佳明選手(楽天)らからどんな刺激を受けましたか?
平岡氏: 何か特別な会話をしたりということはありませんでしたが、彼らの姿勢は他の生徒と比べると違うんですよね。プロになる選手ってこういう人なんだろうなと刺激を受けたことを覚えています。
あがり症を乗り越え単身渡米で掴んだ覚悟
――2013年のプロデビュー戦を振り返ってください。
平岡氏: 実はその頃、極度のあがり症だったんです。リングに上がった瞬間、頭が真っ白になってしまって、試合の内容もあまり覚えていません。練習でやってきたことができたかと言われると、全然できませんでしたね。陸上は自分が走ればいいだけですが、ボクシングは相手を動かすか動かされるかのスポーツなので、その差が大きかったんだと思います。
あがり症を克服するために呼吸法などいろいろ試したんですが、突き詰めると、父が怖いから緊張してしまっていたんだと思うんです。父はデビュー戦からトレーナーとしてずっとセコンドについてくれていたので、負けることよりも、父にどう思われるかの方が気になってしまって…。それが子供の頃からのトラウマみたいになっていました。褒められた記憶はほとんどないのですが、一度、「あいつは練習をすごくやるんだよ」と自分のことを褒めてくれたことを人づてに耳にしたことがありました。自分から話しかけたり、世間話をしたりして関係を見直していくうちに、少しずつ自分の意見も言えるようになってきて、やりやすくなりましたね。
――デビュー翌年から米ロサンゼルスで2年間過ごされたそうですね。
平岡氏: 当時は花形ジムに所属していたのですが、2014年にインフルエンザを発症して全日本新人王を棄権した後、試合が決まらなくなってしまったんです。この期間がもったいないと思って、1人でロサンゼルスに武者修行に行きました。現地に親戚がいたので、サポートを受けながら過ごしていましたね。
あの2年間でメンタル面がすごく強くなったと思っています。言葉の壁もありましたし、日本人選手にはない気持ちの強さのようなものにも触れられた気がします。スパーリングでは相手から悪口を言われることもありました。自分は日本の血も半分入っているので、「お前には黄色の血が流れている」とからかわれることもありました。ただ、そんな中でも結果を残せば認めてもらえる、分かりやすい世界でもありました。憧れのメイウェザー選手とは1度だけ会話する機会があったのですが、緊張しすぎて、何を話したか覚えていません(笑)。
――帰国後、大橋ジムに移籍された経緯を教えてください。
平岡氏: 本当は米国のプロモーターと契約して、現地で試合をする形を取りたかったんです。契約自体はできたんですが、父と一緒に戦える形ではなかったので、契約を解除しました。それなら日本のジムでやるしかないと思い、大橋ボクシングジムへの移籍を決めました。横浜高の先輩でもある大橋秀行会長とは、子供の頃からキッズのボクシング大会などで面識がありました。
大橋ジムは日本有数のジムということもあり、レベルの高い選手が周りにいて刺激を受けましたね。井上尚弥選手からは、直接何かを教わったというよりは、練習への向き合い方を背中で見せてもらった感じです。やる時はとことんやって、オフの時はとことん休む。その姿勢から学んだことは大きいです。
ラスベガスでの挑戦とデビュー24連勝からの1年半
――2019年には米国のボクシングプロモーション会社であるトップランク社と契約されました。
平岡氏: あの頃はずっと米国で試合をしたいと思っていたので、契約できたのは嬉しかったですね。これまでラスベガスでは3試合戦っています。2019年は有観客だったのですが、2020年はコロナ禍の影響で無観客でした。観客が入った時のラスベガスの雰囲気は、日本とは全然違いましたね。あの舞台を経験できたことは、ボクサーとして大きな財産です。
――2021年には佐々木尽選手を破り、日本・WBOアジア太平洋スーパーライト級の王座獲得に成功しました。
平岡氏: あの試合は、ベルトを奪えたことが大きかったですし、多くのファンの方に知ってもらうきっかけにもなりました。相手が前日計量で体重超過していて、自分が勝った場合にのみタイトル獲得という変則ルールで行われました。正直モチベーションが下がる選手もいると思うんですが、ベルトがないと世界戦に進めないので、その気持ちだけに集中していました。
――そして2024年、イスマエル・バローゾ戦で9回TKO勝ち。プロデビューから24連勝を記録しました。
平岡氏: 試合前は負けると言われていたんですが、自分には自信がありました。ただ、正直に言うと、ベルトがかかっていなかったのが少し不満でしたね。プロデビューから負けていないというプレッシャーのようなものはありませんでした。24連勝についても、そこはただの数字で、後からついてきたものだと思っています。
――その後、なかなかタイトル戦が組まれない時期が続いたそうですね。
平岡氏: 話が決まりそうで決まらない、ということが5回くらい続きました。日本に世界チャンピオンを呼んで試合できるという話もあり、どうしても期待してしまう部分があったので、気持ちの面では結構大変でしたね。結果的に1年半ほど実戦から離れることになりました。そんな時、支えてくれたのは父でした。気持ちが落ちている時、練習の中で一生懸命鼓舞してくれましたね。
――そして2026年2月、世界初挑戦となるゲイリー・アントゥアン・ラッセル戦でプロ25戦目にして初黒星を喫しました。自身3度目となる米ラスベガスでの試合前は異例の準備だったとか。
平岡氏: 実はラッセルとは、2025年の前座並びに初の世界戦で戦うことが決まっていたのですが、興行側の事情で延期になっていました。2026年2月に仕切り直すことが決まったのですが、ビザの関係で、試合の2日前に米国入りすることになってしまったんです。本来なら10日から2週間前に到着して調整するところが、直前までどんどん日程が縮まっていって…。
ここまで来たらもうやるしかないという気持ちで臨みました。結果的に12ラウンドをしっかり戦い抜けましたが、0対3で判定負けし、王座獲得はできませんでした。結果は結果として受け止めています。それでも、世界の舞台で戦える手応えはつかめたので、次の試合でやり返したいと思っています。
無所属から世界チャンピオンへ「ずっと諦めていない」
――10年間所属した大橋ジムを離れ、現在は無所属だそうですね。
平岡氏: 今は横浜のジムでトレーニングさせてもらっています。無所属とはいえ、練習さえ続けていれば試合が決まった時にすぐ動けるので、今はのびのびとやれているかなと思いますね。大橋ジムでの10年間は、いろんな試合や経験を通じて、すごく成長させてもらったと思っています。
――今後の目標を教えてください。
平岡氏:もちろん世界チャンピオンです。ずっと諦めていませんし、自分にはそこに至る力があると思っています。あとはタイミングだと思うので、そこに期待してもらえればと思います。引退後もボクシングには関わり続けたいですね。プロを目指す選手だけでなく、自分の身を守るためのボクシングを学びたい人や、プロにつながる前のアマチュア選手が、気持ちの部分や人との接し方を学べるような、そんなジムをいつか作りたいと思っています。
――ご自身の人生を振り返って、一番の転機だったと感じる瞬間はどこになりますか?
平岡氏: 父に厳しくされていた5歳くらいの頃ですね。あれがあったからこそ、いろいろあったいじめにも耐えられましたし、逆に人に優しくするという気持ちも覚えられたと思っています。あとは18歳で飛び込んだ米国での経験も大きかったです。自分にとってけっして快適ではない場所にあえて身を置くということが、人間を強くするんだなと、あの時に思いました。
――最後に、今後もしご自身が誰かに転機をもたらすことができるとしたら、どんな言葉をかけてあげたいですか?
平岡氏: やりたいことがあるなら、逃げずに全力でやった方がいいと思います。不快に感じるような場面もあると思います。でも、そういう場所に身を置くことが本当の近道です。何事も全力で頑張ってほしいなと思います。