「ポスト古田敦也」と期待された米野智人を襲ったイップス。
捕手から外野にコンバートし、人生の記憶に残る逆転満塁本塁打を放った。
食の大切さに目覚め、切り拓いたセカンドキャリアまでの軌跡に迫る。

プロ野球の世界で12人しかいない「正捕手」の座を掴み取る難しさは、経験者にしか分かりません。ヤクルトで「ポスト古田敦也」と目され、将来を嘱望された米野智人(よねの・ともひと)さんを突如襲ったイップスと怪我。絶望の淵に立たされた男は、いかにして復活劇を果たしたのでしょうか。

また、現役時代に直面した身体の不調から「食」の本質に目覚め、引退後に飲食店経営へ転身。現在は古巣のベルーナドームで2店舗を展開しています。

「失敗の数は、チャレンジの数」。捕手から外野手、そして実業家へ。時代の変化をしなやかに生き抜き、セカンドキャリアを切り拓く米野さんの軌跡と、その根底にあるプロフェッショナリズムに迫ります。(内田勝治=ライター)

「食を変えたら人生とパフォーマンスが変わった」一流テニス選手の書籍に感化

――まずは現役引退後から現在に至るまでのご活動について、詳しく教えてください。

米野智人氏(以下、米野氏):2016年に現役を引退し、翌2017年から東京の下北沢で飲食店をスタートしました。4年間経営してノウハウを蓄積した後、2021年からは古巣である西武の本拠地・ベルーナドームで、飲食売店を2店舗運営しています。

 もともと食に対して関心があったわけではありません。プロ入り当初や20代前半はほとんど意識していませんでした(笑)。当時は独身で一人暮らし。「腹を満たすこと」「肉を食べてとにかく体を大きくすること」だけが目的でした。周りの選手も同じような感覚の人が多く、若い頃は練習が終われば毎晩のように焼肉へ行き、朝食は球場に向かう途中でコンビニに入って手軽なパンや惣菜で済ませるような生活でしたね。球場に行けば豪華なケータリングが用意されているので、自分自身で栄養バランスをコントロールしようという発想自体が薄かったんです。

きっかけは30歳手前の頃だったと思います。寝ても疲れが取れないという感覚が抜けない日々が続きました。これは単なる年齢の問題ではなく、食事に原因があるんじゃないかと考えるようになり、自分なりに書籍を読んだり専門家に話を聞いたりして試行錯誤を始めました。

――食の意識が決定的に変わった瞬間はありましたか?

米野氏:遠征先の福岡での出来事です。試合前の空き時間にふらっと入った本屋でテニスのノバク・ジョコビッチ選手の本(「ジョコビッチの生まれ変わる食事」)が目に留まったんです。「食を変えたら人生とパフォーマンスの全てが変わった」というテーマで、気になって購入してホテルの部屋で一気に読み込みました。そこには「グルテンフリー(小麦断ち)」を実践することで体の慢性的な不調を克服し、世界ランク1位に登り詰めたプロセスが詳細に書かれていました。

翌日からパンや麺類といった小麦類を一切断つ生活をスタートさせました。最初は本当に食べるものが制限されて苦労しましたし、周りからは「極端だ」と言われもしました。ですが、数週間続けると明らかに朝の目覚めが変わり、練習後の疲労の抜け方が劇的に違ってきたんです。いかに自分が日常的に胃腸に負担をかけ、重い体でプレーしていたかを痛感しましたね。

肩やスローイング、捕手としての能力に自信…高2で意識したプロ入り

――米野さんが野球を始めたきっかけについて教えてください。

米野氏:父と2歳上の兄の影響です。北海道の自然の中で育ち、家の前や近くの公園でキャッチボールや野球ごっこをしたのが始まりでした。ただ、小学生の時にJリーグが開幕して、世の中がサッカーブーム一色になったんですよね。僕もサッカーチームに入りました。たまに父と兄がいる少年野球チームに遊びにいっていたのですが、サッカーをやる相手がいない(笑)。グラブを借りてキャッチボールをしていくうちに、やっぱり白球を追う方が楽しくなって、小4から野球一本に絞りました。

――その後、順調に才能を開花され、北照高2年春のセンバツでは念願の甲子園に出場を果たします。聖地の土を踏んだ瞬間の記憶はいかがですか?

米野氏:やはり圧倒されましたね。甲子園練習で初めてグラウンドに立った時、チームメイトと一緒に吸い寄せられるようにバックスクリーンの方へ歩いて行ったのを覚えています。開会式では、1学年上の「松坂世代」の選手たち、例えば、沖縄水産の新垣渚さん(元ソフトバンク)の体格を見て驚愕したことも忘れられません。

 高校2年の秋から冬にかけてプロ入りを意識するようになりました。全国トップレベルの強豪校の捕手たちを見て、自分の肩やスローイング、捕手としての能力はかなり上位に位置しているという手応えを掴んだんです。そこから一気に、プロの世界へ行くという目標が現実味を帯びていきました。

「雲の上の存在」古田敦也の技術に感じたレベルの差

――そして1999年のドラフトで、ヤクルトスワローズから3位指名を受けてプロの門を叩きます。当時のヤクルトには球界を代表する捕手の古田敦也さんが鎮座していました。

米野氏:まさに雲の上の存在でした。古田さんの捕ってから投げるまでの正確性や、走者をアウトにする技術には到底及びませんでした。唯一、肩の強さだけは負けていないと思いましたが、それ以外は全てにおいてレベルの差を感じました。

ただ球団も僕を「ポスト古田」として育てようとしてくれていたので、入団2、3年目からは1軍のベンチに帯同させてもらい、古田さんの立ち振る舞いを間近で見学する機会を与えてくれました。古田さん自身も、僕が配球やリード面で疑問をぶつけると、論理的かつ分かりやすく教えてくれました。実績も年齢も離れすぎていたからこそ、いろいろと教えてくれたのだと思います。

――1軍での経験を積み、2006年に古田さんが選手兼任監督に就任したシーズン、米野さんは自己最多となる116試合に出場するなど、正捕手の座を掴みかけました。

米野氏:2006年は僕の野球人生において千載一遇の大チャンスであり、同時にプロ生活最大の挫折と苦難が始まった年でした。原因は打撃の不振ではなく、自分の最大の武器であったはずのスローイングで「イップス」を発症してしまったことでした。

最初は、イニング間のキャッチボールやピッチャーへの返球という、ごく当たり前の動作で違和感が出始めたんです。それでも騙し騙し試合に出続けていたのですが、ある試合の9回、競っている場面で盗塁を仕掛けられたんです。その時、二塁へ投げた送球が自分でも信じられないような軌道を描き、二塁手がジャンプしても届かないようなボールを投げてしまったんです。

さらに、延長で再び盗塁を仕掛けられ、全く同じような大暴投をしてしまったんです。次の試合からスタメンを外され、古田さんからは「すぐまた使うからな」と温かい言葉をかけていただいたのですが、「早く元に戻さなきゃ」と焦れば焦るほどフォームがバラバラになり、そこから精神的にも完全に負のループに陥りました。

イップス、ケガに苦しみ外野転向を直訴…1カ月後にトレード

――その後もケガにも苦しむことになります。

米野氏:2008年には2軍の試合でファウルチップを右手親指に当てて脱臼骨折しました。そこからボールを握った感覚がおかしくなりました。あらゆる治療院に通い、練習方法を変えてもスローイングが改善せずに追い詰められました。そして2010年、意を決して2軍監督に「捕手はもう厳しいので、外野手の練習をさせてください」と直訴したんです。

 その1カ月後ぐらいに、球団事務所に呼ばれて西武ライオンズへのトレードを命じられました。ただ、西武は捕手として補強だったんです。こちらはもう捕手として限界を感じて外野コンバートを直訴した直後でしたから、精神的には本当に厳しく、重い移籍となりました。

――移籍した西武でも苦しい時期が続きますが、起死回生の転機が訪れます。

米野氏:西武に移籍してからもスローイングの問題は解決せず、2軍生活が続きました。2011年の秋には「今年で戦力外通告だろうな」と腹をくくっていたんです。そんな時、秋季キャンプの紅白戦にDHで出場する機会がありました。いい感じで振り抜いたスイングで、本塁打を放つことができたんです。その日の夜、首脳陣から「来季から外野手で勝負してみないか」と打診を受けました。

 そこから若手に混じって必死に外野の守備練習をしました。結果、2012年の春季キャンプのオープン戦で結果が出始め、なんと外野手として開幕1軍登録を勝ち取ったんです。

 そして2012年4月26日のソフトバンク戦、9回2死満塁の場面で、ファルケンボーグ投手から、実に5年ぶりとなる逆転満塁本塁打を放つことができました。もし前年の秋に諦めてユニフォームを脱いでいたら、あの感動的な瞬間は100%存在しませんでした。今でもベルーナドームのお店に立っていると、西武ファンの方々からあの一打について声をかけてもらえます。

――その後、2016年には地元・北海道日本ハムファイターズへ移籍し、「捕手兼2軍バッテリーコーチ補佐」という珍しい役職も経験されました。

米野氏:球団もゆくゆくは指導者にと見越しての役職だったとは思うのですが、選手として勝負したかったという思いもあり、うまく切り替えられなかったのが本音です。当時の日本ハムは大谷翔平投手(ロサンゼルス・ドジャース)も在籍しており、2016年の春季キャンプ中、ブルペン投球を受けましたが、ストレートは速いし、凄いなと思って見ていました。また、札幌ドームでの打撃練習でも平気で外野席の中段、上段に打ち込むんです。あのスケール感を間近で体感できたことも財産ですね。

飲食店開業もコロナ禍に直撃…古巣の西武から「夢のような打診」

――2016年限りで現役を引退された後、どのような経緯で飲食店経営へ舵を切られたのですか?

米野氏:現役末期に食の大切さを知ったことで、「引退後は食を通じて人々の健康やパフォーマンス向上を支える仕事をしたい」という強い想いが芽生えていました。野球界に残る道もありましたが、全く未知のビジネスの世界で自分の力を試してみたかった。独学で栄養学や店舗経営を学び、2017年に東京・下北沢にナチュラルテイストの飲食店を開業しました。

 ただ、接客も調理も未経験ですから、最初は「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」という言葉すら自然に出てこず、戸惑ってばかりでした。ただ、「自分の提供した料理で目の前のお客さんが笑顔になってくれる」というダイレクトな歓びに、野球と同じくらいの熱量を感じていたんです。

――経営が軌道に乗り始めた矢先、2020年にはコロナ禍という未曾有の危機が襲いかかります。

米野氏:飲食業界全体が大打撃を受け、うちの店舗も客足が途絶えて倒産の危機に直面しました。まさにそのどん底のタイミングで、古巣の西武から「ドーム内でスタジアムグルメを出店してみないか」という夢のような打診をいただいたんです。中途半端な兼業にするのを避けるため、下北沢の店舗は一度閉め、人気メニューをオンラインストアへ移行させた上で、球場出店に全エネルギーを注ぎ込む決断をしました。

――現在、ベルーナドームで展開されている2つの店舗について、それぞれのこだわりを教えてください。

米野氏:1店舗目の「BACKYARD BUTCHERS(バックヤードブッチャーズ)」は、僕の現役時代の経験を凝縮させた「ヘルシー×ジャンク」がコンセプトです。一般的に球場飯といえばハイカロリーで重いものが主流ですが、当店では大豆ミートを使った唐揚げやボウル、小麦粉不使用(グルテンフリー)の焼きドーナツなどを提供しています。ヴィーガン(動物由来の製品を口にしないライフスタイル)の方やアレルギーをお持ちのお子様にも安心して楽しんでいただける、これまでにないスタジアムグルメを目指しました。

 2店舗目の「& BUTCHERS(アンドブッチャーズ)」はフライドポテトの専門店です。近年、ポテト専門店がトレンドになっていますが、1店舗目を運営する中で「誰もが手軽に買えて、圧倒的に美味しいポテトを食べてもらいたい」という想いが強まりました。10種類以上ある自家製の無添加ディップソースからお好みの味を選んでいただくスタイルで、最近は手軽に食べられる自家製チュロスも導入して大変ご好評をいただいています。

 もちろんタイミングや縁が全てですが、将来的に僕自身がプレーしたゆかりのある球場、例えばヤクルトの神宮球場や日本ハムのエスコンフィールド HOKKAIDOなどでも、スタジアムグルメを展開できたら最高だなという漠然とした夢は持っています。発信し続けることでチャンスを引き寄せたいですね(笑)。

――最後に、これからセカンドキャリアや新たな挑戦に踏み出そうとしている人々、あるいは壁にぶつかっている若者たちへ、米野さんからメッセージをいただけますでしょうか。

米野氏:僕は、野球がうまくなることがゴールじゃないと思っていて、野球をやっていく中でいろいろな経験を積めたことが一番だと思っています。

 だからこそ、どんどん失敗した方がいいと言い続けています。失敗をしたということは、リスクを取ってチャレンジしたという証拠です。最初から何一つ失敗せずに要領よく生きてきた人よりも、たくさん壁にぶつかり、失敗して、そこから立ち上がってきた人の方が、人間として圧倒的に強く、優しく、深みが出てくる。僕自身のイップスや挫折、飲食店経営での成功も失敗も、すべて今の僕を形成するための貴重な糧になっています。失敗を恐れず、自分の可能性を信じて目の前の挑戦を楽しんでほしいですね。

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